済南~泰山~曲阜~青島~同里

済南~泰山~曲阜~青島~同里山東省を旅する。

トテモ長いプロローグ

動機というか,きっかけが三つあった。

一つは足が丈夫なうちに五岳を制覇すること、既に三岳は登った。南岳衡山・中岳嵩山・西岳華山の三つである。泰山は五岳のなかでも「長」と崇めたてられている聖山である。日本から一番近く且つポピュラーなので最後でもいいかな、と優先順位最後尾につけていた。

18日朝の新聞朝刊僕は上海でこの日を迎えた。上海は何ごともなかった。

19日の午後、上海を発ち済南行の飛行機の中で隣の客が読んいた新聞をもっらって来た。参拝は拝鬼というのか。今から行く青島市では「ジャパンウイーク」が昨日から開催されたそうで従兄弟も心配していた。青島で評判のデパート「ジャスコ」でも各階、日本製品の特売が行われていた。

何かあったのだろうか?3000人住むという青島市の日本人は同思っているのだろうか?「やっかいなことを」と思っているのだろうか。それとも。

イベントも開催中。中国企業の参加はこの後全部,中止とか。

今から行く青島市では「ジャパンウイーク」が昨日から開催されたそうで従兄弟も心配していた。青島で評判のデパート「ジャスコ」でも各階、日本製品の特売が行われていた。

何かあったのだろうか?3000人住むという青島市の日本人は同思っているのだろうか?「やっかいなことを」と思っているのだろうか。それとも。

ジャパンウイークの看板

チンタオ・ジャスコ

ところが、

実は、最近、霧島神宮の参拝の石段が堪えるようになってきた。下りのとき右ひざが痛いのである。老化のせいなのだろうか、それとも鍛錬不足のせいだろうか。

中国の山は殆んどが石段である。石段は膝にくる。

特に泰山の石段登りは中国紹介のTVなどでもよく紹介される難所である。石段が7000段、時間にして6時間かかるらという。せめて半分でも自分の足で挑戦してみたいと思っていた。

もう一つは泰山コースの入口になる青島市に従兄弟を発見したことである。

高校時代(今から45年も前)会ったのを最後に、はっきりいって存在を忘れていた従兄弟である。もちろんその頃は従兄弟の中でも一番親しかったのだが。

今年9月23日、実母の妹が92歳で亡くなった。その伯母の次男が現在、青島市の日本企業に3年半勤務中の恒雄くんである。

「僕がこちらにいる間にぜひ遊びに来ませんか?」

僕より一つ年下の彼のこの言葉が泰山に僕の足を向かわしたと言える。

チンタオは海岸線が奇麗な避暑地ということ、有名な青島ビール発祥の地ぐらいしか認識がなかったのだが、留学生の隋さん、李さん夫妻をはじめ今年の留学生代表の黄佳さんがチンタオの出身ということから最近、身近に感じる中国になっていた。

「大石先生、今度,私が帰るとき一緒にいきませんか?」

「日本語先生をしませんか?姉が学校をしているんですよ。」と隋さんに誘われてもいた。

そんな時、日中友好協会交易部のお付き合いで親しくなった中国東方航空の鹿児島支店長代理の喬謹さんが

「10月中ごろ、10日ほど休暇をとって、上海蟹を食べに帰るけど、大石先生、一緒に上海に行きませんか?旅費割引少しある・・・もし先生がチンタオに
行くなら是非一緒に泰山にも登りたいね。まだ行ってないから。」

という。この三番目の動機が僕を決心させたのである。

17日夜の上海

月が奇麗だったのでバンドを訪れてみた。そのあと、

8時前、一度は覗いてみたかった和平飯店の「老人ジャズバンド」を見た。ノスタルジックな雰囲気にしばし酔う。でも一人はやはり寂しい。50元とビールが20元ぐらいか。

そうして

さっそく、青島の恒雄くんとのメール交換が始まったのである。

慶二さん

10/17~10/20は工場の溶接士に日本の資格を取らせるため、日本のロイドから検査官に来てもらって資格試験を実施することにしています。

そのため、お相手が十分出来ないかもしれませんが(夜は時間を割きます。)又とない機会なのでぜひ、実現させてください。

チンタオ市内観光は1日あれば十分です。

郊外の労山はお勧めポイントですが、最低あと半日必要です。

泰山・曲阜は行くべきです。

チンタオを朝7時の火車(特急)で泰山に14:15に着きます。

その日のうちに泰山か曲阜のどちらかを回ってしまって、翌日、残りに行かれた良いと思います。

帰りは泰山14:48の特急でチンタオ着は22:30になります。

夜行列車もあります。

少し強行軍ですが、泰山に2泊できたら、ゆっくり観光できます。

以上からチンタオ:2日、泰山・曲阜:2泊3日と計画されたらいかがでしょうか?

友人の方が中国の方のようですから、よくご存知だと思います。

泰山は同行できませんが、チンタオ・労山はご一緒できたら良いな!と思っています。

可能なら上海を先に訪問されて、10日間の予定の後半にチンタオ…と旅程を組むことが出来たら幸いです。

恒雄くん:

18日朝発青島行、帰り21日夜上海帰りではどうでしょう。

出来たら泰山の山頂に泊りたいのですが・・ホテルの環境はどんなでしょう。

22日か23日朝から揚州と南京に2泊して、26日の朝鹿児島帰りを計画しています。

協会の会長が10数年前、記念事業で青島の有名な公園に記念植樹をしたそうで、大きくなっているのかな、それとも、引き抜いてしまったのか?見てきて欲しいと言ってました。公園の名前は忘れたそうです。

又、行く前にはメールか電話します。暇があったら恒雄くんの会社・工場見学もしたいですね。

慶二さん

18日からチンタオ訪問であれば私のほうも都合がよいです。

18日のチンタオ到着は夕方になると思うので観光の時間はありません。

21日夜、上海移動とすると泰山・曲阜旅行だけで目いっぱいになってしまいそうです。

せっかくですから、あと1日余裕をとってチンタオ市街、労山を観光できるように日程を考えていただきたいものです。

泰山の頂上の宿は昔風の建物で(かび臭かったと聞きましたが)、ホテル形式ではないかもしれません。

私はふもとのホテルに泊まりましたが、有名な朝陽を見るためには頂上の宿が適しているようです。

泰山には中国人の友人は同行可能ですか?公園は多分、中山公園ではないかと思います。 公園の名前がわからないと、確認のしようがありませんね!

恒雄くん:

青島~泰山に一緒するつもりの喬謹(東方航空支店長)氏が20日、21日に上海で会議が入ったそうで行けなくなったとのことです。

今、兄、健二を誘っていますが、彼も11月なら良いけど、と言ってます。11月はもう寒いでしょう。折角なら山は連れがあった方が楽しいかな、とも思いますが。

もし、ひとり旅の場合、青島発の「中国人ツアー」はどうでしょう。

ホテルに迎えに来て、寄せ集めの14,5名のミニバスツアーで「曲阜~泰山3日間ツアー」はありませんか?

昨年の滞在中はいつもそれを利用してひとり旅をしていました。そうなると山頂泊りは多分無理かもしれませんが。

・・・・というわけで、今計画変更を思案中です。

慶二さん

中国人の友人が一緒だと心強いのに残念でした。

上海の会議を先に済ませて、その後チンタオ、泰山ということにはできませんか?または、良い機会だからぜひ奥様を同行されたらいいのに…と思いますがいかがですか?

チンタオからのバスツアーもあります。資料を取り寄せます。

11月、泰山山頂は寒いと思いますが、10月とそれほど大きな違いはないのではないでしょうか。

私は8月に行きましたが、山頂は震えるほどでした。

健二さんが都合がつけば、一人旅よりは楽しいと思います

恒雄くん:

早速の返事ありがとう。

喬さんに無理は言えません。本社の会議でしょうから。

今、妻はちょっと体調を崩していますし、特に山は弱いようです。市内見学や観光地巡りは体調が戻れば可能でしょうが。

もっとも3年前は娘や3人でツアーでしたが、黄山に行きました。ロープウエィと籠を利用してですが。

再度、兄に誘ってみます。ところで、17日の昼に鹿児島から上海に着きますがその日のうちに青島とは無理なんですか?

そうすると18日終日青島市内観光が出来そうですが。バスツアーの件よろしく。

恒雄くん:

こんな案はいかがでしょう。

青島~泰安は結構(7時間)時間がかかるようですね。

上海から朝、青島に行かずに済南に飛んで(時間も、料金も同じくらいですね)その晩泊って翌朝、そこから泰安まではすぐのようですが。曲阜の観光も終えて青島に行く、というのはどんなでしょうか。

21日、22日を青島で過ごせないでしょうか?

中身(くわしい旅程)はよく分かりませんが、済南もこの際、空気を吸ってみたいのですが。

慶二さん

大変、良い案だと思います。

済南は水の都といわれる山東省の省都です。泉がたくさんあるところと聞いています。済南から泰山は移動距離が少ないので1時間以内で行けます。汽車も電化されて所要時間が短縮(青島ー泰山5時間程度)されているようです。

泰山、泰安、曲阜の観光、青島での滞在に時間の余裕が生まれます。

21日から青島であれば私もフルアテンドできます。

済南、泰山のホテルは日本で予約可能だと思います。

済南から泰山への汽車の切符の予約も日本で出来るでしょうか?

済南では市内観光バスツアーがあるのではないかと思いますがぶっつけ本番ではちょっと心配です。

タクシーだと200元くらいで半日観光できると思います。タクシーはホテルのカウンターで手配して貰う方が安心です。

済南から青島まで観光ガイドを手配することも考えられますが、結構費用がかかるのではないかと思います。

青島のホテルは私が滞在している「王朝大酒店」だと荏原割引料金で5つ星で1泊400元(日本のビジネスホテル並み)です。

よければ会社で予約しますから連絡ください。

以下のような日程でどうでしょうか?

17日:鹿児島ー上海ー済南 (済南泊)
18日:AM/済南市内観光  PM:済南(13:21)-泰山(14:14)移動(泰三
泊)
19日:AM/泰山観光(Taxi~ケーブルカー)  PM:泰山市内観光 (泰山泊)
20日:AM:曲阜観光(Taxi)  PM:泰山~青島移動(汽車)…(青島泊)
21日:青島市内観光 (青島泊)
22日:労山観光   (青島泊)
23日:AM/上海へ移動 
”注”今、泰安という町の名前は「泰山」(駅名も)に変わっています。

体、方針がきまりましたね!
日本で手配できない範囲でこちらで何かすることがあったら連絡ください。
青島のホテルはぜひ私と同じところが便利だと思います。
青島滞在中はフリーにしておいてください

慶二さん

おはようございます。

チンタオは最近、不順な天候が続いていましたが、今朝は気持ちよく晴れて秋の青空です。

チンタオは日本の東北(水戸)と同じくらいの緯度ですから、鹿児島より、かなり涼しいと思います。

現状で最高気温が20度、最低気温が10-13度程度です。

チンタオ郊外の労山と私の部屋のベランダからのチンタオの風景の写真があったので送ります。

こちらで会えるのを楽しみにしています。

恒雄くん:

22日の夜は喬さんご一家と食事をするかも知れません。

曲阜からチンタオへの間、汽車かバスか分かりませんが僕の携帯から貴方に電話をしましょう。20日と21日は間違いなく王朝大酒店に泊ります。

23日に昼過ぎの労山の観光が終わるようなら、夕方にチンタオを発って上海に帰るという案もあります。

もう一晩そちらでゆっくりして23日に上海に帰るのもかまいません。

その場合は今回は揚集や南京行はキャンセルです。

慶二さん

日程1日ずれの件、了解です。

21日夜青島到着、22・23日は青島滞在として、21-23日の王朝ホテルを予約しておきます。

23日上海移動になったら、その時に変更しましょう。

泰山を歩いて上るのは相当きついと思います。(3~4時間の登り)ロープウェイから見たら、急な石の階段が延々と続いていました。ロープウェイで上って、徒歩で下山のほうが楽でしょう。

慶二さんは黄山を登られるくらい元気だから問題ないかもしれません。

17日の朝:喬さんが会社の車で迎えに来てくれた。

旅立ちの朝はいつものことながらワクワクするものだ。

ところがテレビを入れたらとんでもないニュースが流れてきた。

小泉純一郎首相が今朝、靖国神社を参拝した、と告げている。

「なにも今日行かなくてもいいのに、タイミングが悪いな、まさかデモはないと思うけど。」

日本国民の半分が反対し、国益の面からもマイナスの方が多い。まして最も近い二つの隣国が猛反対をしている靖国参拝を今する必要があるのだろうか?と思う。

来年、総理を辞めてからなら、8月15日だろうが何時だろうが、羽織袴で心置きなく参拝したら良いのにと思う。

ガス田や竹島の問題とは違って、こういう心の問題は「おもいやり」の心の方が「言い分」に勝る、と思うのだが。

「・・・じゃあ」と一方が言う「・・それ・じゃあ」と相手が反論する。

二人の言い分にそれぞれ正当性があったとしてもそれでは対話になってはいない。TV評論や週刊誌での国内議論も相手の立場になって考えるという「おもいやり」の心からはどんどん離れていくようで寂しい気持ちがする。

空港に着くまで喬さんとは靖国参拝問題での話し合いが続いた。

鹿児島空港に着く。初めて東方航空の事務所を訪れた。窓の外には目の前に大きな機体が見える。作業服をきた人たちが足早に動き回っている。機体の点検でもしているのだろうか。

こういう形で中国へ旅立つのは初めての経験である。

これも喬さんと親しくなれたからのことで、一般旅行者と違った気持ちである。

そういえば、一年前の三月は初めての長沙へ、しかも100日滞在という、この時も、いつものツアーや観光とは違った期待感と不安感に包まれていたものだ。

出発まで随分時間があったので事務所にスーツケースを置かせてもらい出発カウンターへ出てみた。喬謹さんから「今日の乗客状況はいいです。満席に近いです。」と聞いていたが、ロビー内は確かに国内便なみの混みようだった。 

乗客数が伸びず11月からは、折角、昨年から一便増えていた月曜就航便が廃止になるという。鹿児島の場合、ビジネス関係の利用客が少ないのだという。観光だけではやはり無理があるらしい。

中国全土からのビザが解禁になったので中国からの観光客の勧誘も計ろうとしているのだろうか。鹿児島へは安い運賃で入国出来るのだろうから入国を鹿児島にして帰国を福岡に、或いはその逆のコースを設定して、九州一周の旅などを考えてみてはどうだろう。そのためには南九州の魅力をもっともっと上海その他でPRしなければいけない。その方法はなんだろう。

いつも上海便を利用して思うのだが、中国国内の乗り継ぎ便を半額にしたらどうだろうビザ不要の2週間以内に限ってもいい。

例えば、鹿児島~上海を45,000円とすると上海~青島の往復を700元(9500円) 上海~長沙を890元(12000円)もちろんMU中国東方航空利用で。

航行時間が一時間ぐらいの中国国内便の料金が7~800元,、日本円でいま一万円強だから現在の往復運賃四万五千円は高くはないのだろうか。

日本からの、そして上海からの国際運賃も三万円以下になるともっと行きやすいのだろうが。

・などと考えているうちに上海浦東空港になめらかに(と喬さんは中国人操縦士を褒める)着陸した。

そういえば機内で長沙市に行く市役所の団体と一緒だった。隣の隣に同じ通り会の南洲館の橋本さんがいて,ひとこと会話する。初めての長沙とか。

帰国後、我が協会の交易部に入会のお誘いをし、快諾された。 

トイレに行く途中、うしろの席に弓場貿易の弓場氏を発見、香港に行かれるそうとか。

(参考:空港~上海駅間ノバス1時間10分で18元・260円ぐらい?でした。)

実際の行動は以下の通りです。

17日(月)
 
pm1:30上海空港着バスで上海駅前のホリデイインへ。 インターネットで予約済み(二回目泊) 一休みの後、タクシーで南京路へ。バンドから和平飯店で生バンドを聞いてから新天地で食事をしてホテルヘ。

18日(火) 

王仏寺を午前中見学する。夕方発の済南行飛行機の方が午前の 便より半額ぐらいになるというのでその ようにした。約300元(4200円程)( 現在レートは千円が68元ぐらい。)pm6:00ごろ済南空港(ペンキの匂い がする新しい空港でした。)バスで約50 分かかって市内へ。予約していた四つ 星ホテル・吉華大厦(jihua hotel)へつ いたのは7時を過ぎていました。

19日(水)
  
この日一日で曲阜と泰山を観光することになった。ホテルのボーイの紹介で、タクシーを二日チャーターして済南観光まで済ますという案に従うことにした。あちこち無駄な時間を考えるとこっちの方が無難と判断した。
従って、旅行社を通して予約しておいた泰山と曲阜のホテルはキャンセルした。

20日(木)
 
昼すぎまで済南市内観光。
昼食を食べて高速バスで青島(チンタオ)へ。
およそ4時間半かかって青島に到着。

21日(金)

        労山観光
22日(土)  チンタオ市内観光
23日(日)  チンタオ市内観光
24日(月)  午後:上海へ 
25日(火)  同里観光
26日(水)  鹿児島へ ジナン タイシャン チーフ チンダオ トンリ  

中国の一日目には必ず訪れる浦東の夜景、今夜の満月はとても美しかった。。

昨夜、妻がわが家の窓から城山の上に見える月を眺めながら僕に言った「貴方は明日は中国でこの同じ月を見ますね。」 と言う言葉を思い出していた。

上海の来るたびに一度は覗いてみたかった和平飯店の老人ジャズバンド。

8時から演奏があるという。時計を見たら7時半。一瞬、躊躇したけど中で待つことにした。客はいないのに殆んどの席に予約カードがおいてある。小姐が案内してくれた席からは、どの席も大きな柱が前にあってステージは見えない。ざんねん!

入場?料55元だったか、飲物は別なのか?20元前後のプライスがついていた。青島ビールをオーダーする。撮影はOKだというのであちこち写した。

演奏が始まる頃になると、団体というかグループ客が入ってきた。予想通り?というか、ほとんどのグループが日本語を話している。もう、ここは日本国の音楽喫茶。なぜだろう?こんなところでは日本人にはあまり会いたくない。

「皆さん、ワンドリンクは確か、込みになってるはずですから。」

案内のダオヤオ(ガイドさん)の大きな声が雰囲気をこわす。

もう今の上海で独りエトランゼなど味わうことの方が無理なのかもしれない。

「サンセット77」「テイクファイブ」「スターダスト!」と口々に言いながら、なにやらメモ紙に書いてガイドに手渡す。ドリンクのオーダーではなく演奏曲のリクエストである。この時点までは60年代の東京の音楽喫茶を思い出していた。

でみ、演奏が始まると、椅子には掛けずにあちこちからカメラとムービーの乱射?になったのである。

そして、とうとうすごいことが始まった。客が交代で演奏中のバンドマンの後ろに立って記念写真を撮り始めたのだ。

プレーヤーも観光バンドを自認しているのだろう。ひとつのイベント(興)と考えれば決して場違いでもなけれえば他の客の顰蹙をかうシーンでもないのだろう。

年齢層が50代位なので観光ツアーというより会社、企業関係の研修か慰安(似たようなものだが)の団体だろう、まあ,おおいに楽しんでください。そんな気持ちで和平飯店を後にした。

ところで、今度の旅で特に気づいたことは価格のことである。

まず、ホテル代だが、上海で気に入っていた上海駅前のホリデイイン・ダウンタウンが最初の泊りが783元だという。昨年5月は560元だった。便利で四つ星にしては上等なホテルである。それが今年は783元。仕方ないのでチンタオの帰りも二日予約しようとしたら、1200元だという。勿論、一泊で料金ある。

長沙にいるとき寮を出てから暫く滞在した華程大酒店(三ツ星)が450元を1週間滞在したら350元でいいという。ただし今度の土曜だけは850元だという。長沙市で全国規模の大会があって、3万人ぐらいが全国から集まるからだそうである。つまり正月料金のようなものだ。

中国のホテルの料金はさようにめちゃくちゃと思ったりするが彼らにはごく、自然のことらしい。

仕方がないので上海駅のホリデイインのほんの2分ぐらい先の上海中亜飯店に変えた。中のこしらえもホリデイインと遜色はなかった。料金はなんと318元、二日泊って636元だった。(左の画像を参照。)

良いホテルを見つけたものだ。ちなみに3階には中国で有名な「上島珈琲」があり、かなり遅い時間まで食事がとれる。喫茶店といっても日本人好みのレストランである。普通の中華飯店にはないコーヒーはもちろん、牛ヒレステーキやサーロインもある。

なにより嬉しいのは生野菜のサラダがあることだ。

この手の喫茶店は長沙にも何軒かあって辛くないのでよく食べに行った。

ただ、料金は当地の相場からすれば太貴(タイグイ)である。

以前はホテルは南京東路~西路を走る地下鉄2号線沿いが多かったけど上海駅~徐家匯~上海体育館.を走る1号線の始発駅、上海駅付近のホテルのほうが何かと便利なのが分かった。

新天地などで遊んでぶらぶらと人民広場まで歩き、地下鉄を利用してもよし、タクシーで帰っても安いものだ。

なによりは、どこか近辺に一日旅に出かけるとき利用する上海駅や高速バス停のある上海体育館に行くのに便利がよいのである。

そういえば地下鉄の切符(カード)が又、換わっていた。昨年は確か、裏が磁気(こげ茶)の手前から挿入して1メートル先に飛び出すカードを抜くとバーが通れるシステムだったが、今は丸い面のそのカードを当てるというかかざすだけでバーが空くという形式になっていた。

まだ導入まもないのだろう。カードの裏をかざすのか、表を当てるのか分からず、どぎまぎしている人が多い。

悪い予感がした。僕の前の若い女性がバーが動かず慌てた。多分、機械がカードを読み込まなかったのだろう。もう一度戻って当てなおせばいいのに僕の顔を見ている。

仕方がないので僕のカードを機械に当てた。するとバーが開き彼女は通って行った。今度は僕のバーが開かないはずだ。そう思って祈るようにバーを押したらスッと通れた。何だったのだろう?

もし通れなかったら・・・・と考えないことにした。

国内で飛行機を利用する時はよく考えて買った方が良い。今回、済南行とチンタオから上海帰りを午後の便にしたのは運賃が何百元の単位で違ったからである。どうかすると一便違いでそれぐらいの差が出るときがあるのだ。

初めての済南空港に着いたのは夕暮れだった。

親切なボーイ(喬クン)に聞いて、夕食はホテル最上階(22階)のレストランでとることにした。昨年なら無理してでも繁華街に繰り出すところだが聞けば済南には歩行街はないんだと言う。

青島ビールに焼きギョーザあと野菜炒めのようなもので夕食を済ませ部屋に戻ってしばらくしたらドアがノックされた。

一瞬、昨年のひとり旅の記憶がもどった。

・・・・・・・可愛いい??小姐のご訪問か?

ドアをそっと開けると、色白で長身のボーイの喬クンが頼んでいた済南市の市街地図をもって立っていた。

何か話があるというので中に入ってもらった。

余談だけど、時々、このような応接室つきのホテルにで出くわすことがある。ドアを開けると10畳ぐらいの大きな応接間になっていて、豪華なソファに大型TVを備え寝室との間は大きなドアで仕切られている。

ここ「吉華大厦」もそんな四星ホテルである。湖南省の岳陽市のホテルはこれ以上の設備だったのを思い出した。房銭は300元台の並価格なので得したような気分になる。

多分、星の判定(ランク付け)は部屋の豪華さではなくホテルの設備できめているらしい。

・・・彼の話というのは次のようなことだった。

先生は明日の朝、泰山に行かれます。そして、その晩は泰山に泊り、翌日、曲阜に行かれその後汽車で青島(チンタオ)に行く計画ですね。

折角、済南に来ていながら、美しい済南の泉を見られないのは残念です。

それと、曲阜からチンタオは汽車だと7時間かかります。チンタオに夜中に着くかもしれません。心配です。

そこで提案ですが、こういうのは如何ですか?

済南観光チケットの半券

泰山の入山券&リフト券

明日、タクシーを一日貸し切るのです。

一日で泰山に登って、曲阜を見学して又、ここ済南に夜、戻って来ます。

翌日、昼過ぎまで、済南の観光を済ませ汽車か、高速バスでチンタオに行かれたらどうですか?済南~チンタオは高速バスで4時間足らずです。

夕方の6時過ぎにはチンタオに着きますよ。

「もし、よかったら今から懇意にしている運転手をここに呼んでもいいです。」
・・・・・・・と言うのだ。

一応、ぼくも泰山のホテルは予約していたけどスーツケースを持って曲阜の何処に預けるのか、と迷っていたので、経費(チャーター料金)さえ折り合えば、と乗り気半分というところだ。確かに済南観光を上海発をケチって午後の便にしたお陰で今日果たせなかったのを悔いていたのだ。

僕はボーイに言った。

「確かに良い案ですが,ほんとうに一日で泰山・曲阜を観光出来ますか?僕はバスやケーブルじゃなく足で登るつもりなんですよ。」

ニコニコと笑顔をたたえながらボーイの喬クンがいうには

「経験があります、この提案は多くの旅行者にいつも感謝されてます。」と

ボーイの喬クン

・・・30分程して案内するという運転手を連れて喬クンが来た。

頭の毛の薄い丸顔の男である。上客を前にして顔中が笑顔である。

「お客さん、心配いりません。泰山、ゆっくり登ってきてください。3時間でも4時間でもタクシーは逃げませんね。明日の観光も付き合います。」

「じゃあ二日間のチャーターで幾らですか?」

「普通は一日チャーター700元ですが、二日チャーターで700元でいいよ。」

これで、心配していたスーツケースを持ってバスに乗らずに済む。リュックひとつでしかも不要なものは車に置いたまま観光出来る。昨年の『中原の旅』を思い出した。

丸顔。頭毛薄の運転手さん(食堂で)

時速120キロで飛ばす。

『済南は黄河も見に行きたいけど大丈夫ですか?」丸顔の運転手が人差し指と親指で○を作って見せた。

これで今から開いたままのスーツケースを整理しないで放ったまま寝れると思うと嬉しかった。

街に出なかったのでいつも旅先で感じるその町の印象はないが済南という土地のことを考えていた。

済南(jinan)という都市名を意識したのは実はとてもとても新しい。

実は昨年、協会の中国語会話教室にネットを通じて若い女性からの問合せがあった。

「私は来年、三月より済南の大学で日本語の教師をすることになったのでそれまで、中国語を特訓をしたいのですが、どうすればよいのでしょう?二人一組で習いたいのですが。」

済南市が山東省の省都であることも知らなかった。青島の方が省都だとばかり思っていた。それから、地球の歩き方(ダイヤモンド社)を読んで歴史的には春秋時代の斉の都だつたこと。

その王が釣りで有名な「太公望」だということや観光的には街のあちこちに湧き出る「泉の城」として有名なこと、それにもまして、満洲事変、シナ事変へと繋がる「済南事件」(1928年5月)の舞台となったところだということも初めて知ったのである。

朝、7時に目覚めた。こちらに来て3日目の朝である。今日も快晴。

7時半に運転手がニコニコ顔で迎えに来た。朝ごはん、食べたか?と聞くのでまだだと答えると、連れて行く、と言う。歩いて2,3分の所にそれらしき店が並んである。店先ではマントウを蒸している。

「何食べたいか?」と聞くので「カユ」と言うと店の人となにやら話している。いままでホテルのお粥(zhou)以外で美味しかったためしがない。念のために「白粥」と念をおしたけど、やはり色つきの、猫も食べそうにない粥がでた。餃子はあるか?というと「ある。」というのでそれを食べた。歯がたたないほど硬かった。近くの店でパンを買った。かじりながら行くことにした。

下・左が固いギョーザと右、これでも白粥?

ぼろのサンタナはよく走る。メーターを見たら120キロ出している。100キロのスピードで目の前に迫るトラックをクラクションを鳴らしながら追い越していく、しかも反対車線に膨らませながらの追い越しだから乗ってる方は心臓に悪い。

曲阜まで2時間半で行くと言う。8時20分にホテルを出発したから、事故に遭遇しなければ11時前には曲阜に着く予定である。

2時間もあれば三孔を回れると運転手は言う。

なんと10時40分に孔子墓に着いてしまった。

まず孔子の墓『孔林』にある

孔林入口

孔林の中

正式には「孔林」という。

入ると女性が付きまとってくる。よく分からないがガイドらしい。10元で良いと言うけど言葉が分からないので雇っても仕方がない。

こういう観光は日本人ツアー客が来ていると一番良いのだが、不思議なことにまだ、こちらでそんなグループに出会ったためしがない。

だから、曲阜観光はめぼしい写真で見たところを眺めるだけしか出来ないのが残念である。

写真だけは適当に写してきたので画像を参照されたし

「孔林」から「孔廟」までは喬さんの車で移動し、2時間後に会う場所を決めて一人で「孔府」まで見学することにした。

はっきりおぼえているのは右端の『大成殿』だけである。

どこをどう歩いたかハッキリしない。最初に行ったところが、どうも孔子の子孫が暮らしていた邸宅・「孔府」らしい。出口を間違えてとんでもなく遠いところに出たらしく二輪車で「孔廟」 に戻る(写真中)ことになった。

解説も無しに次から次へと建造物を眺める、これが僕の中国観光のパターンでその時その時は感じ入るものがあるのだけど、次から次へと忘れていくのが残念である。念の為に、写真を撮るのだけど目印になる記憶が消えてしまう。

特に曲阜のような歴史的な建造物が多いとホォーツ!ホォーッ!とため息の連続で見終えたら何にも残ってない。お恥ずかしい次第である。

さて、曲阜を12時事14分に発って一時間。一路、泰山へ。

タクシーが大衆橋横の中天門行きバス発着所に着いたのは1時15分だった。バスがなかなか出発しない。(写真左)20分は待っただろう。要するに満席になったらスタートするらしいことが分かった。一席空いてるのだ。(写真中)

僕のメモによると1:50スタート~2:09着とあるところをみるとバスの切符を買ってから35分かかったことになる。長いはずだ。

次のメモには2:15分スタート・・・4:15分南大門着とあって、15を消して25と書き換えてある。南大門の鳥居から天街まで階段がまだ10分ぐらい続いlたのだろう。

ここ天街(写真下)から玉皇頂(左写真の奥)まではまだ少し階段を登らなければならない。

しかし来るまえに決めていた自分の目標は対松亭から南大門へ続く、1633段の難所十八盤を登り切ることだった。

十八盤は天梯(てんてい)とよばれ、800mで400mの高低差があるといわれている。特に南天門(写真右手前)の緊十八盤は、下を見ると足がすくんでしまうほどで、這うように登らなければならない。

登り切ったあとにある天街とはどんなところなんだろう。 

将来、ここ天街を訪れることはあるかも知れない。中天門からロープウェイに乗れば僅か50元で8分という時間でここを訪れることが出来る。

しかし、自分の足で2時間かけてここに到着する経験はもうおそらく一生ないだろう。そんな気がしての『泰山登山」だったので天街から登ってきた十八盤を見下ろすと何ともいえない達成感に酔うような気持ちだった。

もう上玉皇頂は余り魅力はなかったのがその時の実感だった。

確かに最後の20分はきつかった。3段上って一呼吸、また三段上って二呼吸つまり10分登って10分休憩といった感じだった。

幸運にもひざは何ともなかったのでホッとした。

天街を20分ほどうろうろしていた。玉皇頂から下りてくる人達、ロープウェイで上ってくる人々、十八盤を上り終えた人たちで天街は混んでいた。

店を覗いてみたがみやげに買いそうなものはなかった。古いお店が多く、たいていの店は二階が宿になっているようだ。泊って朝、ご来光を拝む人たちが多いのだろう。

もう暫くいたら好きな夕日を見ることが出来るかもしれない。

そう思ったけど運転手の喬さんが待っているのが気になったのと、あたりの雰囲気から「もしかしたらロープウェイの最終時間に間に合わなかったら大変。そんな気がして、泰山の頂き(付近を)後にすることにした。

こうして僕の今回の旅の第一の目的五岳の第一聖山・泰山登山を終えた。

ロープウェイとバスを乗り継いで最初の大衆橋に着いたのは5時15分過ぎ頃だったと思う。運転手の喬さんが

「6時過ぎだと思っていましたヨ  早かったですね。」

ニッコリびっくり顔で迎えてくれた。

泰山の記念写真集をごらんください

もうすっかり暗くなった済南の街に着いたのは7時が半分ぐらい過ぎたころだった。、約束していた夕食を喬さんと一緒にとることにし、彼の案内で済南名物を注文した。(左上の写真はその時食べた食事のあとで、食堂の小姐に撮ってもらつた。)

こうして旅の第一章は明日の済南(ジナン)市内観光を残すだけとなった。

当初、スーツケースを引きずりながら幾多のハプニングを期待?しての泰山旅行だったが結局、心ならずも、お金を使っての安易・安全な運転ガイド付きの旅になったのである。

済南市内観光は全く、想像したとおり、公園入口に車で着いて、何分後に車と待合せをし、次の観光地へ。その繰り返しで何箇所かを回る。チャーターの気楽さに任せての半日が過ぎた。

済南の写真だけは適当に写してきたので画像を参照されたし。

こころは時々、夕方に着くであろうチンタオの街と、ニコニコ笑顔で迎えてくれる従兄弟の恒雄クンの顔が浮かんで消えた。

運転手の喬さんが汽車より高速バスの方が早いかもしれない。汽車は駅で待つ時間が長いね。というのでそうすることにした。一度は汽車に乗りたかったけど、4時間ぐらいなら確かに20分間隔ぐらいで出るバスの方が楽で快適なのは分かっていた。

とうとう市街地を見ることなく済南市を離れることになった。

長距離バスのターミナルは二つあるらしい。最近、豪華バスもあるらしいというので喬さんが連れてきてくれたのは「済南長距離総合バスターミナル」だったが、たまたま切符売場で買った番号のバスはとても豪華とはいえなかった。(乗った長距離バス)チンタオ行きのその次のバスも後ろに控えていたがまあ、似たような型だったので乗ることにした。

バスの中ではおいしい牛乳に菓子パン,降りるときは雨も降らないのに雨傘のプレゼントがあった。企業間の競争が激しいのかナ。 

チンタオへの初踏み入れは高速バスターミナルだった。飛行機や鉄道に較べるとやはり感動に乏しいのは否めない。バスから降りたら早速、恒雄くんに電話を入れた。

「どこのバスターミナルかわからないけどタクシーでホテルまで行くから着いたら電話する。」そう言ってタクシーに乗った。

「かかっても20分位でしょう」従兄弟が言ってたけど、段々、山道に入っていく。なんだか市街地から離れていくようだ。チンタオは海岸線と聞いていたイメージとかけ離れた初印象だった。

後になって地図を見たら着いたバス停は「青島長距離バスターミナル」といってホテルのある第一海水浴場に行くには青島一の大きな公園「中山公園」の中の山道を上ったり下ったりしたのだった。一瞬だけど、行き場所を間違っているのでは?と不安がよぎる。旅行者気質はなかなか抜けないものだ。寝る前の毎度の学習、ベッドの上で20分ぐらい、ホテルで買った青島市街地図で研究に耽るのだった。

ホテルのロビーに従兄弟の恒雄くんがニコニコ笑顔で迎えてくれた。

「まる3日、青島滞在なので、明日はのんびりとチンタオの海岸を歩きませんか。幾つかの観光スポット巡りものんびり、ゆっくりしましょうよ。」

計画では半日観光だったのが、思ってもない余裕の行動となった。

朝9時半、匯泉王朝大酒店の外は日は照っていたけど風があり肌寒い感じである。

ホテルのロケーションが良い。道路(南海路)を跨ぐとそこは砂浜である。

時間にしたら1分もかからない距離なのだ。この肌寒い朝なのに何人か海水パンツ姿で砂浜をジョギングしている。海まで80mはあるか?恒雄くん曰く「引いたら200mぐらいなるよ。」「夏は波打ち際は人で見えません。」

写真左:浜まで1分に立つホテルと恒雄くんと(中山公園)

海岸へりを第二海水浴場の北側にある1949年前官僚や資本家の別荘地であった「八大関景区」へ歩いた。

途中の岩の上、あちこちの新婚さんの記念写真撮りに出くわす。ちょっと数えただけで8組はいた。やはり、一番良い撮影スポットがあるのか、前の組の終わるのを待っている。ちらっとドレスの中が見えたが下はジ-ンズのようだ。身はジーンズでも心は無垢のドレスであってほしいものだ。(中はキス釣りか??)

ロシア人が建てて国民党総統蒋介石が住んでいた「花石楼」右写真。

その他、八大関賓館、元帥楼などを見た後、どの旅行書にも紹介されていないけど是非、訪ねてみたい故居があった。

『康有為故居』である。

康有為が晩年を日本人の妻と共に過ごした住いである。地図で調べてみたら、なんと、僕の泊まっている王朝大酒店の近くだった。

公主楼を見た後、恒雄クンが

「まず、慶二さんのぜひ見たいところに行ってからお昼にしましょう。」と、タクシーを利用することになった。

小魚山公園の入口から東へと歩き、突き当たりを右に下る坂道をおりていくと、住宅街の中に小さな洋風建築が姿を現した。

中国近代史の中でその名を知られる康有為が晩年を過ごした建物である。

康有為(KangYouWei)は、1858年に広東省南海県で生まれた。このため「康南海」とも呼ばれている。
1898年、当時の光緒帝のもと戊戌(ぼじゅつ)維新を指導。
変法論の主唱者として、西洋の近代国家体制を学んだ先進的な中国人として、また傑出した政治家として知られている。

1917年、康有為は初めて青島を訪れた後すぐに大連へと赴任する。

この短期滞在の間に、青島の緑の樹々と紺碧の海の風景は康有為に強烈な印象を与えたようで、1923年には再び青島に帰ってきてここに居をかまえた。

この居は「天遊園」と名付けられ、1927年に没するまで、青島を訪れるたびにこの天遊園に居住したという。

さて、中国近代史のなかで康有為(KangYouWei)の存在というどのようなものだったのだろうか?

それには当時のアジア情勢から眺めていかなければならない。(左ページの詳細を参照。)

日清戦争の敗北は中国の知識人に深刻な衝撃を与えたのだろう。

下関条約調印の報が伝わると、挙人(郷試に合格して会試を受ける資格の出来た者)1200余人が康有為の呼びかけに応じて連名で「条約を拒否し、政治制度の改革を行って屈辱から抜けだそう」という上書を清朝に提出した。

(1895.4)。

政治制度の改革とは

日本の明治維新を手本にして国会を開き憲法を制定して立憲君主制を樹立するという運動である。

その改革(変法)運動が広まっていくと、革新的な若い知識人たちは各地に結社をつくり、新聞や学校を通じて啓蒙運動を行っていった。

特に梁啓超(1873~1929)は科挙に失敗した後、康有為に師事し、上海で新聞を発行して変法自強の論をひろめ(1896)、また翻訳を通じてヨーロッパの学芸の紹介に努めた。

康有為のたびたびの上書はやがて若い光緒帝(位1874~1908)の心をつかみ、光緒帝を動かした。

ついに1898年6月、光緒帝は変法の詔書を発布し、康有為・梁啓超・譚嗣同(たんしどう、1865~98)ら変法派を登用し、戊戌(ぼじゅつ)の変法(1898.6~98.9)を開始した。

一方、改革に反対する保守派は西太后を動かして変法派の弾圧をはかった。1898年9月、西太后は光緒帝を幽閉し、変法派を逮捕・処刑した。

康有為や梁啓超は日本(香港説もある)に亡命したが、譚嗣同は処刑された。結局、新政はわずか3ヶ月で終わってしまったのである(百日維新)。

戊戌の政変後、西太后は三度摂政となり、保守・排外派が政治を動かすようになった。

1898年(明治31年)9月の時点で、康有為は40歳、梁啓超は25歳、譚嗣同は33歳、光緒帝は24歳だった。

この頃、つまり日清戦争が終わって3年後、日露戦争の勃発まであと6年という時代の日本からみた対中国そしてアジアの状況はどんなだったのだろう。

日清戦争敗戦の後清朝政府が13名の官費留学生を日本に送り込んで以来中国からの留学生は私費を中心にどんどん増え続け、孫文、康有為、黄興、張継、宋教仁、陳天華など、まるで日本は革命の戦士のふるさ とのように彼らはのびのびと振舞っていた。

明治の日本人はアジアが外国に侵略されていることに義憤を感じ、なんとか各国が 腐敗した制度を改革して立派な国家になってくれるよう、傑出した人物には物心ともに応援した。

アジア主義ともいうべき理想に燃えて西欧列強に立ち向かったのは政府の要人だけで はない。多くの民間の志士が純粋に支援活動し続けていた。

1897年(明治30)9月に横浜で宮崎滔天は孫文と運命の出会いをし、意気投合する。 滔天はさっそく孫文を犬養毅に引き合わせ支援を求めた。

1898年(明治31)康有為が光緒帝とともに断行した「戊戌の変法」は西太后ら保守 派の反撃に会い、康有為と梁啓超は命からがら香港に亡命する。

滔天は康有為を日本に招いて孫文と会わせ、一つにまとまるように説得するが、皇帝 の信任を得ていた康有為はプライドが高く、なかなか孫文の意見と合わない。

孫文は清朝を倒す革命を目指しているのだが、康有為は立権君主制度に固守して激論と なり、ついに妥協点を見出すことはできなかった。

しかし滔天は康有為を犬養毅や伊藤博文、大隈重信などに紹介している。

その頃、中国では

山東におけるドイツ人宣教師殺害事件(1897)を口実にドイツが山東半島に進出すると、義和団を中心とする排外運動が起こった。 

義和団は、1899年末には山東省から河北省に入り、「扶清滅洋」(清を扶(たす)けて、西洋を討ち滅ぼそうの意味)をスローガンに掲げ、各地の教会を襲撃し、宣教師やキリスト教徒を殺害し、鉄道や電線を破壊し、1900年6月には20万人の勢力となって北京に入り、日本およびドイツ人の外交官を殺害した。

6月21日、清朝の保守・排外派は義和団を利用して外国人を一掃しようとして列強に宣戦を布告した。

清軍による北京の外国公使館に対して攻撃が始まり、また華北一帯にわたって教会・外国人に対する大規模な攻撃・殺戮が始まった。

列強はこれを機に在留外国人の保護を名目に8カ国(日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア)が共同出兵にふみきった。

映画『北京の55日』はこの時の映画である。

      康有為のその後については・・・・

かれの改革思想は、君主立憲政体による共和制社会の実現にあった。しかし、当初の改良思想も、亡命後はしだいに後退し、光緒帝の復辟運動に終始した。

その後の16年間、アメリカなどに亡命し、帰国したのは、中華民国成立後で、そのころには反動派と烙印されていた。

1917年、宣統帝の復辞運動に参加し、弼徳院副院長を授けられたが、運動は失敗して、アメリカ大使館の保護をあおいだ。1927年、国民革命軍が上海に迫り、青島に逃げ、失意のうちに病死した。

チンタオは翌日の『労山登山観光』をはさんで3日間、ホテルのある第一海水浴場付近を中心に西側の天主教堂(中)から旧市街「中山路商業区」を経て「桟橋」までと、新市街のジャスコを中心に贋物店のひしめく「ジーモール」そして、夜は恒雄くん、行きつけの日本語の話すホステスのいる『カラオケバー』(左写真)などを体験した。、ここには本店と支店と二日間遊びに行った。

一晩は僕が持ったが700元位だったと思う。日本円にして1万円ほどだった。恒雄君の友人も一緒だったので、一人当たりにすると3千円ということになる。こちら(日本)のスナックと余り変わらないようだ。

・・・思い出したことがある。

昨年、長沙にいるとき、範先生が「カラオケバーに行きますか?」と意味ありげに誘われたことがあった。

普通の「カラオケ(個室で何人かで行って歌を唄うだけ)」とはちょっと違うのらしい。

「どれぐらいお金が要るのか」と聞くと、「初めに気に入った同伴女性をきめます。」という。もっとも、決めなければ無料らしい。決めると、その段階で日本円で一万円ぐらいの料金がかかるのだと言う。

傍が「女性は横にはべらして一緒に歌を唄うだけでですか?」と訊くと、

 「そうです。」という。
 「ぼくはいつも指名しませんよ。」と範先生はいう。
 「幾らぐらい持って行けばいいんでしょうか?」
 「三万円もあれば大丈夫かな」「唄うだけなら5千円ぐらいあれば」

実はこの時のことはよく覚えている。鹿児島からある知り合いが仕事で長沙に来て僕に言ったことの続きだったから、「今回で長沙二回目ですが、いつも公の歓待がうんざりするぐらい続き、もう辟易です。本当は、もつと庶民レベルの夜の世界を体験したいのですが」と、ジャーナリストの知り合いが言うので範先生に尋ねたのだった。

ちなみにそこに行く約束をした時は彼が帰国する前で、八時に通程大酒店で待ち合わせをしたけど、携帯で「あと1時間は抜けられそうにありません。」

というのでカラオケ行きはキャンセルになった。僕も滞在中の金銭感覚ではとても惜しい額なのでホッとしたことを覚えている。

青島での訪問先はあと、中山公園は3時間ほどブラブラした。最高の天気で園内は菊のデスプレィでいっぱいだった。日本流に言うと『菊祭り』である。

日本の庭園と寸分変わらない。色彩感覚の違いはある。真紅があちこちに配色されている。公園内にウエディングドレス人形(フィギュア)が立ってたりする。

あと青島ビール工場見学と資料館に行った。昼間からジョッキで生を飲まされる。オール中国語の説明でさっぱりだった。

世界のビールが陳列されてたけど日本のはアサヒスーパードライだけ、何百本もある缶を数回見直してみたけどスーパードライの色違いが2本だけだった。ちょっと寂しかった。

アサヒビールは現在、青島ビールと提携関係にあるのだという。そうか、と合点がいったけど、世界の著名ビールの展示となると、キリンやサッポロ、サントリーがないのは気になった。

三日目の朝、ホテルの外ですごいチャイナ風の音(笛)と太鼓の大合奏が始まっていた。道路を隔てた三叉路で20名ぐらいの真っ赤な制服(衣装)を着たグループである。

中:人を乗せるであろう籠 右:車で到着した新郎&新婦。

実はこのカップルの男性は日本人しかも鹿児島県の笠沙の出だそうである、女性の方は中国・大連人。

昨夜、ホテルの日本料理店で男性の親族達がカゴシマ弁で騒いでいて、その隣合わせだった。

ホテル前玄関でのセレモニーは大変な賑わいだった。爆竹の中で獅子舞の曲芸が続き、『私もこちらに来てこんな派手な結婚式は初めてです』と恒雄クンの会社の上司がデジカメ片手に語っておられました。おかげでいい見学をさせてもらいました。

この後、僕の旅は労(正しくは労の左に山偏がつく)山の一日登山と上海近郊の水郷同里の観光が続く。どちらも、思い出多き旅だった。

労山の写真集はここから入れます

同里のアルバムはこちらから見てください

労山は西安の『西岳華山』に石の質感や形状が似て切り立つと言う表現より、そびえると言った感がした。特に、海岸線とのコントラストは、中国では始めて見た山だった。

恒雄くんが「労山は、裏というか、もっと奥の方から登る道があって、そこから、真っ暗な洞穴を登っていきます。眺めも、スリルも一番だと思うので、そこへ行きます。」と言う。

あとで地図を見たら『仰口景区』と書いてあった。上がり口付近には道教の庵「太平宮」がある。仰口索道という二人乗りのリフトが10分程、さほど勾配のない山を登ると、次に5元で買った懐中電灯の光だけを頼りにやっと通り抜けられそうな穴倉を時には垂直に近い角度の崖を登ったりして山頂へ出る。

はるか下に海岸線が見える。

『こんな良い天気に恵まれて労山に登るのは初めてです。ひどい時は霧で何にも見えないときがあります。」

従兄弟の恒雄君がニッコリ笑って言った。

東方航空の喬さんがいたら「ワタシ 晴れ男ヨ 雨フラナオヨ。」と自慢げに言ったことだろう。

そんなことを思いながら労山頂上を後にした。帰りは「歩きましょう」との恒雄君の提案に従って、いくらか紅葉になった木々を眺めながら下った。

康有為故居にて。

贋物店が軒を連ねるジモール
面白くて二日行った

中山公園はとにかく広い。海江田会長
等が植樹した場所は見つからなかった

よく見てください。人間ではありません

青島ビール記念館

街を歩いていると、液体の入ったビニール袋をぶら下げている人に出会う生ビールを家へ持ち帰っているのだ。青島では、これが新鮮な生ビールを手に入れる方法。値段は量ではなく、重さで決まる。こ3元(約50円)で袋いっぱい。

生ビールを外で飲みたいときは、ストローで飲むのが青島流。青島を英語で書くと、”Qingdao”、けれどもチンタオビールに書かれているのは”Tsingtao”。実は、ドイツ語で青島を表記したものだ。

青島ビール工場の外の道路沿いには食堂がいっぱいある。青島ビール工場の外の道路沿いには食堂がいっぱいある。

済南事変と当時の時代背景

18日朝の新聞朝刊僕は上海でこの日を迎えた。上海は何ごともなかった。19日の午後、上海を発ち済南行の飛行機の中で隣の客が読んでいた新聞をもっらって来た。参拝は拝鬼というのか。今から行く青島市では「ジャパンウイーク」が昨日から開催されたそうで従兄弟も心配していた。青島で評判のデパート「ジャスコ」でも各階、日本製品の特売が行われていた。

何かあったのだろうか?3000人住むという青島市の日本人は同思っているのだろうか?「やっかいなことを」と思っているのだろうか。それとも。

1925年3月、偉大な領袖。孫文が死去し国民党は軍を背景に右派の蒋介石が実権を握った。26年7月、孫文の遺訓を継ぎ「北伐」が宣言されると蒋介石は北京へ向けて北上を開始した。蒋介石に率いられた国民革命軍はさらに北上し、翌28年4月北京を占領し北伐を完成させ、10月に南京国民政府首席に就任し全国統一を成し遂げた。

国際緊張の高まりと日本の大陸侵略

しかし,この時期、第一次世界大戦後の一時の平和、国際協調を実現したワシントン体制は終わりを告げた。

1929年の世界恐慌前後から、国際社会は不況と混乱を強め、ドイツでナチズム、イタリアでファシズム、日本で軍部勢力が台頭し、英,米、仏に敢て挑戦する空気が強まった。

こうした中で日本は金融恐慌・不況に苦しみ中国における勢力拡大を加速した。

すなわち幣原喜重郎の協調外交から田中義一の強行外交に転じ、統一中国の出現を牽制した28年の山東出兵、張作霖爆殺事件から31年の満州事変へと、中国大陸への侵略を強めていた。

済南事件 1

1928年(昭和3)5月,第2次山東出兵断行中の日本軍が,中国山東軍の済南(ちーなん)で同地を占領し,北伐途上の中国国民革命軍と衝突した事件。金融恐慌の中で成立した田中義一政友会内閣は,中国の国民革命が日本帝国主義の既得権益を侵すことを阻止しようとして,まず1927年2,000人の軍隊を山東省に派遣した(第1次山東出兵)。これはまもなく撤兵したが,1928年,北伐再開により,日本政府は再び多数の軍隊を派遣し,済南を占領した。そこに,国民革命軍が入城してきたため,衝突,市街戦となり多数の死傷者が出た。この事件で,日本政府は,中国人が日本人在留人を殺したとデマ宣伝し,軍隊を増派し(第3次出兵),中国北部一帯を占領,武力を背景とした交渉を行った。1929年妥協に達したが,このことは,中国民衆のナショナリズム感情をあおり,反日・反帝運動として燃え上る結果を生んだ。

西田畊一(こういち)在済南総領事代理が酒井少佐とともに蒋介石と会見していた五月三日の午前九時半頃、事件が発生した。

日本側の説明だと発端は、国民革命軍の正規兵約三〇人が城外の商埠地内で満州日報の取次店を営む在留邦人の吉房長平宅を掠奪したことにはじまる。そして、この知らせを受けた久米川好春中尉が率いる日本軍約三〇人と襲撃した中国兵約三〇人との間で銃撃戦が開始され、近辺でも複数の個所で射ちあいが発生したとしている。

実態は、国民革命軍の反日宣伝をめぐる紛糾かと推定できるが、吉房宅は、日中両軍が激戦を交わした麟趾門街からは七〇〇メートルほど離れた場所であり、軍事衝突の直接的な誘因とは考えにくい。

一方、中国側の見解だと、病気の第四〇軍兵士一人を病院につれていく途中で、日本兵に阻止されて言い争いとなり、発砲されたという(この時、中国兵一人と中国人人夫一人が死亡)。

いずれの言い分が正しいか検証は困難であるが、第四〇軍第三師歩兵第七団の将兵約一二〇〇人のうち、一〇〇四人までが約二時間の間に捕虜となっており、日本側一〇人に対して一五〇余人もの死者を中国側が出していることから、中国軍にとってこの銃撃戦は突発事であり、計画的だったとは考えにくい。

大規模出兵を望んでいた強硬派の酒井隆少佐が打電したものを陸軍省が流したものといわれている。こうした情勢を背景に、現地の第六師団長は責任者の処刑や関係部隊の武装解除など五ヵ条の期限付要求を中国側に交付した。

予想しない事態に中国側は驚き、回答期限の延期を要求したが、日本軍側は、「軍の威信上已むなく断然たる処置に出て要求を貫徹」すると通告したのち、八日早朝から済南城に対する大規模な攻撃を開始し、済南周辺を占領した。

このような日本側の強硬姿勢は、北伐軍の進攻を遅らせ、張作霖政権との間で懸案となっている中国東北地方における鉄道問題等の契約交渉の成立をも視野に入れたものといえよう。

これに対し、日本軍との決戦を回避した蒋介石は、中国軍を撤退させ迂回して北京へ向かい北上したため、交戦は短期間で終わった。そして外交交渉に移り、二九年三月に合意が漸く成立し、日本軍は撤兵する。(小池聖一)

済南第一泉?突泉公園済南第一泉?突泉公園済南第一泉?突泉公園大明湖公園大明湖公園(観覧車上から)黄河に架かる浮橋の上から。

それには当時のアジ情勢から眺めていかなければならない。

「眠れる獅子」と呼ばれていた清朝が日清戦争(1894~95)に敗北し、その弱体が暴露されると列強は争って中国へ進出し、利権の獲得に乗りだした。

日本が下関条約で遼東半島を獲得すると、条約調印から6日後に、ロシアはフランス・ドイツをさそい、三国が共同で日本に対して遼東半島を清国に返還するように勧告した(三国干渉、1895.4)。日本はやむなくこれを受け入れ、11月に遼東半島を清に返還し、その代償として3000万両を受け取った。

そしてすでにシベリア鉄道の建設を進め、極東への進出を強めていたロシアは三国干渉の代償として、1896年に清から東清鉄道の敷設権を獲得した。

中国分割の野心を持つドイツは、2人のドイツ人宣教師が殺害された事件を口実に艦隊を派遣して膠州湾を占領した(1897.11)。そして翌1898年3月に膠州湾を租借し(期限は99カ年)、青島(チンタオ)市を建設し、東洋艦隊の根拠地とした。

租借とは、他国の領土の一部を条約によって国が借りることであるが、租借期間中の租借地における行政・立法・司法権は租借国がもつので、事実上領土割譲の性格を持つことになる。

ドイツが膠州湾を租借すると、ロシアは遼東半島南部(旅順・大連)を租借し(期限は25カ年)、旅順に要塞と軍港を、大連には商港を建設した(1898.3)。

イギリスは、ロシアの旅順・大連租借に対抗して、清の北洋艦隊の根拠地であった山東半島北岸の威海衛を租借して東洋艦隊の基地とし(期限は25カ年)、また九龍半島(九龍半島と付属の33島を含み、新界といった)を租借した(期限は99カ年、1898.6)。フランスも、翌1899年に広州湾を租借した(期限は99カ年)。

列強は租借地を軍事基地とし、そこから内地に通じる鉄道の敷設権や鉱山採掘権をも併せて獲得した。そして自国の権益地帯の独占をはかるために、特定の地域を他国に割譲しないことを清朝に約束させる不割譲条約を結び、その地域を自国の勢力範囲と定めた。

ロシアは中国東北地方を、ドイツは山東省を勢力範囲とし、イギリスは長江流域と広東省東部を、そしてフランスは広東省西部と広西省・雲南省・海南島を勢力範囲とした。また日本は台湾対岸の福建省を勢力範囲と定めたので、中国は事実上列強によって分割されたにひとしい状態となった。