Xi Tang
2003・10・31
西塘は拙江省の嘉善県にある。
春秋戦国時代に呉越が争ったところで、元代の西塘は水に依り市となり、賑やかな街を形成していた。また明・清時代は手工業と商業が栄えた。西塘は川がいたるところにある。
9本の川が町を8区画に分け。多くの橋が架けられている。104の橋は明清時代に造られた。
中土ホテルの部屋からの朝日とホテルの前
家屋は川に沿って並んでいる。「門の前に街道、家の後ろに川、おくには長い路地が100本あまりある。」
122本の路地は幅も長さもそれぞれ異なる。唯一変わらないのは、足元の石坂である。100年の風説を経て磨かれ、奥深い光を反射し、灰色の壁と黒い瓦に映して古い町の移ろいを伝える。
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/rmhb/japan/200204/7-1.htm
実は、西塘には30日に行く予定だった。
今回の旅のハイライトが近づいていた。西塘は見えない糸でつながっているかのようだった。
朝、7時半に李黎がホテル(中土大廈)に迎えに来た。
中土大厦は思っていたよりはるかにいいホテルだった。李黎からメールで初めて聞いたときは、薄汚い、古びた建物を想像したけど、どうして、どうして上海賓館に決して引けを取らないばかりか、部屋に関しては,こちらの方が数段ましだった。
部屋の大きさ、ベッドの豪華さ、調度品、バスルームも申し分なかった。
中土大厦・玄関とビルの全景をアップで。
新しく出来たという近くのレストラン(永和大王)で二人は早飯をとった。皮蛋痩肉粥・油揚条・小ロン包・水桶豆腐というメニューだった。特に粥は美味しかった。帰って来てから店の林琳に写真を見せたら油揚条はとても有名な朝の食べ物だそうで、琳も大好きだそうである。僕の朝の食事のイメージ(昔、西安の路地裏で食べたような)をくすがえす朝飯だった。 もっとも李黎がぼくのために選んでくれたのだろうが。
・・・・そういえば、この前の王宝和大酒店での李黎との待合せ場所取り違え事件のことをまだ話していなかった。
永和大王の朝メニューとバス停留所
・・・・・それは、こうだった。
三日目(27日)の晩のことでした。、慎介くんと蘇州の帰りに李黎とお姉さんの阿静(アジン)を蟹料理に招待する約束をしていた。王宝和は二ヶ所あって、一方はホテルでその?階かにレストランはあり、もう一ヶ所が昔から有名な上海蟹の専門レストランなのである。
この二ヶ所は歩いて5分ぐらいのところにあるのだけど、僕らは、ホテルで待ち合わそう、と言ったのを、李黎たちは、レストランで待っていたらしい。
もっとも、間違っていたのは僕たちの方だというのが、あとで、メモをみて分ったのだが、実に、1時間30分、お互い、待ちぼうけをくった。
ホテルのウエイトレスにレストランの場所を聞いて、3回ほど、行ったけど、場所を見つけることは出来なかった。
「もう一軒の王宝和は何処ですか?」いう、僕の中国語が、なかなか通じなかったのには参った。自信をなくしてしまった。
さて、話をもどそう・・・・・・
上海体育館横バスセンターと地下鉄内
・・上海駅まで市バスで行こうとしたのだけれど来るバス、来るバスが超満員で、とても乗れそうになかった。一度は李黎の背中を押してやっと乗れそうになったけど、もう一歩のところで、ステップが上がれずあきらめた。
諦めてタクシーで駅まで行くことにした。
そんなこんなで、地下鉄を乗り継いで上海体育館に着いたのは8時40分を過ぎていた。
ガイドの上海小姐
急いで李黎がチケットを買いに行ったけど、眉をひそめながら戻ってきた。
「西塘ハ、モウ出てしまったソウデス。9:00発ノバスは、ジャリ(暇日)ダケ運行シテルソウデス」と言った。周庄はまだ乗れるとのことだった。
・・・つまり、西塘行きは土日だけの運行なのである。
というわけで30日は9時5分発の周庄観光に変更なった次第である。
・・・・・・・周庄は充分、たのしいツアーだった。
周庄から戻ったのはもう夕方だった。時間にするとまだ、5時半なのだけど、気分的には7時ごろのような気がした。
なにか日本との一時間の時差が気になる。昔、日本であったサマータイムを思い出す。
晩飯は中華にしょうと准海路へタクシーで行った。30分ほど散歩して、「そうだ! こちらのパソコンを見るんだった。」ということを思い出した。
出来ればインターネットカフェに行って、李黎が僕のメールを受けているパソコンの実態を調べてみたいと思っている。
近くの伊勢丹や、その他のデパートを覗いてみた。2,3軒まわったけどパソコンの売場は どこにもなかった。
もちろん、電気店らしきものもない。
李黎が「徐家匯(シュジャフィ)ニアルカモシレナイ。」と言ったので、行ってみることにした。
地下鉄に乗って五つ目での駅である。乗り換えはない。上海の地下鉄はとても便利である。
すぐ傍に入り口があって、着いたら、そこは目的地だから、タクシーに乗ったような利便性がある。
徐家匯は一度、行ってみたいところだった。パソコン云々に関係なく、徐家匯自体が行きたいところだった。夕食を徐家匯でしてもいい?と思った。
又、ちがう街に来たようだった。上海の大きさを感じた。
開発されているのは浦東地区ばかりかと思っていたが地下鉄を出て周りの空間と巨大ビル(デパート群)に圧倒された。
太平洋デパートの電気専門デパートに入った。各階、電化製品の山である。広さは余りない。
五階にあるノートパソコン売場を覗いたが、日本のディスプレーと異なり、触れない、看れない、。しかも、ラップがはってある。
あきらめて出た。
近くの有名(と李黎が言った。)中華飯店で夕食をとった。
いつものことで、半分は残した。
李黎も残す事に無関心のようだ、いつも残すのを見ているからオーダーは控えめでよさそうだが、いつも、5皿ぐらい注文する。
オーダーも食事の楽しみ(料理を見る)ひとつなのかもしれない。食後、二度目の「新天地」散歩(グァングァンジェ)にタクシーで行く(戻る?)。
このあとの新天地での話は「新天地ストーリー」に詳しく書いてある。
李黎に買ってあげた記念の逸飛新作のプラスチック花瓶の値段は正式には160元だった。
もしかしたら、ストーリーでは高く書いたかもしれない?
実は、長々と前日から書いているのは、このあと、お腹の調子が急変していくからである。
晩飯の中華が当たったのか?カプチーノ(これが一番怪しい)が原因か?
このこともストーリーで書いたつもりだ。
李黎にはだまっていた。
李黎とは11時にホテル前で別れた。
このころはもう、お腹に異常事態発生の気配を感じていた。
そんなことで、風呂には入りたくなく、シャワーだけを浴びることにした。
去年、杭州で泊った五つ星ホテルラディソンにも引けを取らない立派な設備がこの三つ星(中土大廈)には備わっている。
これで、一泊350元(5500円)なら上等である。
李黎との朝のロビーでの待合い時間は朝7:00にした。
もし、起きれなかったら、と、自分の携帯でんわのアラームを6:15にセットした。
じつは、フロントにモーニングコールを6:30に頼んではいたのに・・・
朝、アラームが鳴ったので目が覚めた。なんと、まだ、夜中の五時過ぎではないか?
時計は一時間、中国時差に合わせたのだけど、携帯時間は日本のままだったのである。
6時ごろ東の空があかるくなった。相変わらずお腹の方はグルグルと鳴っている
今日は一番のハイライト西塘紀行である。
バスの中で催したらどうしょう! 在中国では昼間の大だけは極力、避けたいと思っている。
ウルムチでハニウリを食べた時の「直行」を思い出した。
持参の特効薬ミヤリサンFMを二錠飲む。朝の粥はやめとこう!!
案の定!西塘への一日は苦難の日であった。
小舟に乗って回ったオプションの田園風景をおた
のしみ下さい。苦痛の中の撮影です。ハイ
僕らの乗った小舟はこれ。
小舟の中の風景と上海小姐のガイド説明
地下鉄「陝西南路」駅に着く前に、あやうく失神しそうになったのである。眩暈がしてだんだん気が遠くなりそうになった。いつか、店で、仕事中にこんな気分になりかけてことがある。
・・・・こんなところで、こんな時、・・・「どうしょう、早く、次の駅に着かないか!」
李黎は気付いていなかったようだ。ぼくは李黎の背中を抱えるようにホームに下りた。
かろうじて、長ベンチに腰掛け、しばし、じ~っとしていた。
・・・・・・・・ 「ダイジョウブ?」
日本語のボカブュラリーの少ない李黎はこんな時、どうしていいのか分らず。といって中国語でも声かけられず困惑していたに違いない。
・・・・・・・くちびるがカラカラだった。
もう、とても、次の電車に乗れるような余力は残っていなかった。
・・・・・・・「タクシーで行こう!」
李黎をせきたて、地下鉄のホームを出た。
もう、眩暈は収まっていた。・・が、お腹は鳴動を続けていた。
僕の心は逡巡をくりかえしていた。「やめようか」「お腹が痛い」「途中でいきたくなったらどうしょう。」
正直なところ、自分一人だったら、行く先が西塘でなかったら、ストップ! 間違いなし、の状態にあった。
バスの発車時間があと30分に迫っていた。タクシーの運転手は15分で着くと言った。
・・・このへんの内容は苦痛で好く覚えていない。多分、李黎が一番、辛かっただろう。つまり、この事態を、どう自分で判断し、それを、どう伝えたらいいのか?が・・・・
李黎がバスの切符を買ってきた。ときどき、腹痛が来るが、なししろ軽い脱水症状が出ていて、くちびるがカラカラなのである。
といって、持っているウーロン茶をがぶ飲みは出来ない。朝、トイレでほとんどのものは出してしまっているので、お腹は空っぽ状態なのだ。
・・・・・・そういう悪情況のなか、・・・・・ともかく、バスは出発した。
お腹は相変わらず、大回転をしていた。時折、しぼるような苦痛がくる。
もう、最悪!!!
苦痛の中で写した西塘の風景をおたのしみください。
Map とパンフレット
櫓をもつ男と 水郷めぐりの舟のチケット
王宝和ホテルニ夜景と中土ホテルからの朝焼け
普通なら、こんな状態の場合、バスの中だろうと、生理現象としては、 無条件反射的に履行されそうなはずなのに・・・幸か!不幸か?
バスガイドの甲高い上海弁がなにか遠くで聞こえるような気がするほど、お腹のなかの回転運動に神経が集中していた。
前の席(僕たちの席は前から3番目)のおばさんグループがそれは賑やかで、そのことも僕のナーバスな神経を刺激した。
突然、蜜柑か柿か落ちたらしく、僕に足を上げろといいう(・・・ってるらしい)僕は顔からパーカーをすっぽりかぶったまま、しかたなしに両足をあげる。
あいかわらあずくちびるが渇く、でも、持ってきたウーロン茶は口に含む程度にした。脱水症状と下し(シェ)の二者択一を迫られていた。
すこしお腹が落ちついたころだった。1時間すぎたころだったか・・・
李黎が言った「慶二サン フネニノル(船に乗る)デスイイデスカ?」
20名ぐらいのツアー客はバスから降りた。一人だけ欧米人がいる。
10分ほど田舎道を歩くと水路が目の前に広がった。船着きばから100メートル位先にトイレとおぼしき建物が見える。
李黎に言った。「僕、トイレニ イコウ(行きたい)カナ。」・・・と。
李黎が上海小姐ガイドに聞いてくれた。しばらく、ふたりで会話をしていた。いい結論がでそうにないみたいだ。僕の勘では、舟が着いたところにトイレと休憩所があるからそこまで行ってからでは、との話のようだ。
実際のところ、僕としては、この小舟での観光は止めて舟が戻ってくるまでゆっくりひとりトイレに座っていたかったのだが、もちろん、そんな会話は不可以である。
それに、よく聞いて見るとわたし達はここには「不回来!」戻って来ない。つまり、バスは舟の着く先に先回りするらしい。・・・・・・ 結局、李黎と僕は皆がのつてしまった最後に舟に乗った。
「あの二人、なにやってんダ!!」という顔をしていたかも知れないけど、幸い、僕には、そんな他人の顔色を見る余裕なんてものはなかった。
でも、少し、回転運動は鎮まっていた。お尻の筋肉を意識しておけば、着くまではなんとか我慢出来る状態ではあった。
それより、可哀相なのは李黎であった。きっと、皆の視線を感じていたことだろう。それに、他のペアやグループはこの舟オプションに結構、興奮して、ワイワイ騒いでいるのに、僕らはほとんど会話が無い。おまけに僕は李黎の顔をよく見る余裕すらなかったのだ李黎はどんな顔で僕を見ていたのだろうか?
きっと、僕の顔だけがこの中で苦痛の顔だったに違いない。
今夜の予定は李黎との今回の旅の最後の夜。浦東のサントリービルの最上階で西洋料理のフルコースでも、ロマンチックな上海の夜景でも眺めながら・・・・・と思っている。
李黎もそれを楽しみにしている。でも・・どうしょう・・・・
西塘古鎮はぼくの期待を裏切らなかった。
ゆったりと、時が止まったような・・・そんな感じだった。
李黎とふたりで乗った貸切りの小舟は80元と、少し、高いかな?と、思ったけど ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小舟にゆられ、至福のときに身をまかせるには充分な価値のあるものだった。
なぜか?お腹もしずかだった。
・・・・・30分ほど、李黎とは、会話はなかった。
というより、何の会話も、この場合、不要に思えた。
そして・・・・
僕たちの水郷古鎮の旅は10月の最後の日に終わろうとしていた。