旅のおわりは 夕闇のコロンス島でした。
2006・9・18(月)
日本人を母にもつ明代末期の英雄・鄭成功の像がコロンス島には立っている。残念ながら暗くて陰影しか見られなかった。
プロローグで今年の旅は3つの後悔があった、と書いた。
最初のひとつはモンゴル草原の夜明けを体験することが出来なかったことである。
あの日に限って、草原にはみぞれが降ってた。
留学生の丁さんが言ってた通り「草原ツアーはやはり7~,8月がいちばん」なのだろうか。
二つめの後悔は北京の『司馬台長城』に行けなかったこと。
同じ観光地を2度訪れるほどぼくはこの大陸をまだ行き尽くしてはいない。
例えば故宮など、一度目に回りきれてないところ訪れるというのはわるくないけど、巨大観光地である八達嶺など、再訪の感慨は一度目に較べればはるかに劣る。
明代の姿をそのまま残していると言われる司馬台長城、
美しい湖によって東西を分けられ、橋でつながった長城に行く絶好のチャンスを逃がした悔いは大きかった。
日が悪かったのである。北京では『頤和園』にもまだ行っていない。少し足を延ばし『避暑山荘承徳』も訪ねたい地である。
そして、三つめの後悔が『コロンス島で一日のんびり過ごす』チャンスを逸したことである。
他人のせいにはしたくはないけど中国人のアドバイスは後で悔やむことが多い。ひとり旅というのはこういう時がいちばん困る。それは相談する相手がいないことだ。
今度の場合は、計画を変更するというのではなく、
「島は午後からでも充分、時間があるよ、午前中に私と石の芸術品を見に泉州に行きませんか?」
という肖社長の誘いに乗ってしまったことである。
「コロンス島に行くは、うちの社員、ひとりガイドにつけるよ。心配ないから」
と言ってくれた。彼は自分の石工場を見せたかったのかも知れない。ぼくの方も一度、石の工場というのを見たかったし、近くにある石像をつくる現場にも興味があった。
点刻と言って写真を見ながら大理石や御影石に点(ドット)でコピーしていくアートをこの目で見たかったのである。
鹿児島市日中友好協会の海江田会長がいつも言っておられる
「私の在任中に辛亥革命の黄興の記念碑を南洲墓地に建てたいと思っています。」
その参考にもなるかもしれない。という気持ちもあった。
いろいろな理由から泉州行きは、むしろタイミングのよいお誘いだったのである。
実際、泉州から帰っての一日はぼくの体験のなかで要記録のマークのつく日であったことは事実である。
ただ、あとに予定していた(コロンス島見学の)時間が少なすぎたことだけである。
「遅くなってしまってゴメンナサイ。面白くなかったでしょう。」
肖社長のことばは同行した日本人バイヤーとの商談の為、ぼくに時間の無駄をさせたことに対しての言葉だったのだろう。
しかし社長からすれば、ぼくを泉州に連れてきたことの方が、むしろついでで、ぼくへの好意なのだから気にはしていない。
むしろ、世界を股に石の商売をしている上田市の柴田さんと、おそらくアモイでは有数であろう肖社長との会話はぼくにとってかなり刺激的な会話といえた。
ただし詳しい(会話の)内容をここで書くのは控えたい。
柴田さんは一年の三分の二は海外なのだそうだ。
今日もインドからアモイへ帰ったばかりで、明日は福州に向かわれるとのこと。
重いサンプル石を入れた鞄を肩にかけ旅をされているそうだ。
御影石の原石やかけらを研磨したサンプルを見てその磨かれた後の石の品質(つやとか輝きなど)を極め、取引をする。(この表現さえ正しいかどうか自信がない)
そういう会話を聞くのははじめてだった。
「これからはインドを恐れてはいけません。」
と、柴田さんは言った。
「確かに技術は中国より上です。インド人はこう言ってます。(中国製は石が悪いのではなくて研磨が違うんだ)と。中国の石はは研磨のとき熱を加えるから、その時は輝いていてもあとで輝き消えてきます。」
また、
「5分間磨くの時間を2分長く、7分にするだけで10~20%の艶の差がでます。女も下地を磨けば上化粧なしで綺麗でしょう。」と。
肖社長の工場はアモイから2時間足らずの泉州の近くにある。着いたのは11時15分だった。
工場に入ると
「ここの機具は最新の機械ですね」と柴田さんは褒めていた。
「ここが古い機械を使った工場ならこんなことはいわないんですけどね」といいながら柴田さんは肖さんに話しかける。
「工員にしつけることです。日本人が、いくら急いで製品をつくれと、言ってきても出来ないときは断る勇気を持つべきです。」
「品質の保証は出来ません」と言うくらいの勇気が必要です。
「メインのものだけは良い石で勝負しなさい。」と柴田さんは肖氏に言う。
ちなみに石の取引単位はM3つまり一立方メートル、ドル建てで取引するんだそうだ。
肖社長らの工場での商談がおわり、昼食を済ませ、わたしたちが石の仏像や点刻製品を作る石材店に着いたのは1時過ぎだった。
工場で頂いた名刺には《アモイ定和園芸(貿易)有限公司 *** 》と書いてあった。
そこは石を削る工場だからか屋根付きのオープン(駐車場のような)工場だった。
アモイまでの帰りのクルマの中では時計の針を見ることをやめた。
時の経過(今の時間)を,正確に知るのが怖い時がある。
そういう時はぼくは時計を見ないようにしている。
それは現実からの逃避に違いないが、見て、あわててしまって平常心を失うよりましだと思うからである。
たとえば、空港に間に合うか否か、で無心に高速を運転している時。
また、夏の夜釣りで、一晩中、魚を釣り続け、まだ何も釣れなくて、東の空が明るくなりかける時などである。
「もう、何時!」・・「未だ、何時!!」・・と、 時は本当に心臓にわるいものである。
だから針を見るのが心臓に悪いときは、ひたすら時を忘れるようにしている。
アモイ駅の近く、賑やかな繁華街の中にあるビルの8階に肖社長の本社事務所はあった。
事務所は広くはないが中が3階になっている。
社長や柴田さんの後をついて階段をあがるとそこは会議場になっていた。5,6名の社員が柴田氏の到来をまっていたらしく、早速、一人一人と紹介の挨拶が続いていく。
それから何やらと用が足されていき、ここでも時間だけがどんどん経過していった。
光陰矢の如し、一寸の光陰、軽んずべからず。(また、ぼくのつぶやきが・・・)
やっと、肖社長がぼくの方を向いて笑顔でひとりの男を紹介した。
残念ながら肖社長がぼくの案内役につけてくれた人は期待していた可愛い小姐ではなかった。
もっとも、その席にはそれらしき人は見当たらなかったのであきらめてはいたけど。
ガイド役の若者はぼくに手をさしのべ
「わたしの名前は偉(人偏ナシ)と申します。」
「今年、結婚しました。」と、微笑を浮かべながら流暢な日本語で語った。
俳優の真田広之に似たアモイ大学出身の頭の良さそうな若者だった。あとで写真で見ると真田には全然似てなかった。不思議??
コロンス島の船着場に着いたのは5時だった。アモイに着いたのが4時が過ぎていたからそのままコロンス島に直行していたらと思うと残念でしかたがなかったけどそうも言えなかった。
いまから島に渡って観光をする。頭の中が錯乱状態。
この時ほど時よ、止まれ!と言いたかったときはなかった。
知らず知らずのうちに口のなかでつぶやきが旋律にかわっていた。
時がぼくを追い越してゆ~く。
呼び戻すことができるな~ら~。
ぼく~は何を惜しむ~だ~ろ~。
この写真は船着場に着いた写真、と船が出た頃の辺りの様子である。
ところでアモイは島そのものが市であり、コロンス島は本島から400mの近距離にある小島といえる。
船で6分、船賃は7元で、2階は1元プラスされる。行きも帰りも乗船客で一杯だった。
周りを見ていると80%が住民のようだった。1元払って上のデッキに上る人の数が2割ぐらいしかいなかったからだ。
着いた時には太陽はもうすでに西の海に沈みかけていた。
テレビで見た『日光岩』の展望台から眼下にひろがる旧租界の街並みを眺めることも、対岸のアモイ島の遠景やそして、楽しみにしていた2キロの沖合いにある台湾の金門島を眺めることも、岩の上に立つ鄭成功の彫像を見上げること。
それらすべてがフイになってしまった。
せめて「海上の楽園」といわれる島の見所だけは暗やみのなかでも見たいと思い、偉クンに無理を言って電動カート(50元)を借りることにした。
コロンス島は1902年に共同租界だった。
アメリカ領事館を始め、オランダ、イギリス、日本の各領事館に列強諸国の商社や教会、学校など、それぞれの国のそれぞれの様式の建物が立ち並んでいる。
その後、中華民国の成立後には華僑が競って洋風の別荘を建て「万国建築博覧」とひとびとにいわれるようになったいろいろな様式の建物が今に残っている。
島の特徴はというとまずクルマがいない街なのだ。、ここにはガソリンを使用する車は消防自動車だけで、あとは電動カートだけしかない。そうそう、何故か自転車も禁止されてるそうなのである。
ぼくの知ってる限りではこんな街は世界中でここだけである。
また、音楽の島とよばれるほど島民のピアノ保有率が高く、子供達へのピアノ教育が盛んなのだそうだ。多くの有名なピアニストが育ったという。
ぼくもカートで細い石畳の道を登ったり降ったりしてる間中、聞き耳を立てていたが、残念ながらどこからもピアノの音は聞こえてこなかった。
ところで鄭成功を語らずしてコロンス島を、そして、アモイを終えるわけにはいかない。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア』より転載させてもらい鄭成功のプロフィールを紹介しよう。
鄭 成功(Zheng Chenggong;てい せいこう )
日本の平戸で父鄭芝竜と日本人の母田川松の間に生まれた。幼名を福松と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、七歳のときに父の故郷福建につれてこられる。鄭芝竜の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために武力を持っていた。
父により隆武帝に引き合わされ、眉目秀麗でいかにも頼れそうな鄭森は大いに気に入られ「朕に娘がいれば娶わせるのだが残念ながらいない。
その代わりに国姓の朱を与えよう。」と言われたが、恐れ多いと国姓は使わずに鄭成功と名乗る。これ以降鄭成功は国姓爺(爺は老人の意味ではなく、旦那と言う程の意味)と呼ばれるようになった。
ちなみに、同時代に活躍した日本の歌舞伎・浄瑠璃劇作家である近松門左衛門の人形浄瑠璃作品である『国性爺合戦』は、鄭成功をモデルとして作られたものである。
隆武帝軍は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝竜はこの軍に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めようとしたが、鄭芝竜は意思を変えず、父と子の道は別れることになった。
その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまずアモイ島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。
鄭成功は17万5千の北伐軍を興す。
意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に会い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の3月25日に再度進軍を始めた。
鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。
敗軍の鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、ここを占拠していたオランダ人を追放し、ここを根拠とする。おそらくここを清への抵抗の拠点としたかったのだろうが、そのすぐ後に死去した。
以上『ウィキペディア』より。
後ろの席には二人の中国小姐、前にぼくらを乗せた電動カートは、右手に海岸線を、左手には丘いっぱいに広がる芝生のなかに建つ瀟洒なイギリス風の館を眺めながら、のろのろと上って行く。
まだ芝生のみどりと建物の赤い屋根の色が、かろうじて識別できる視界のなかをカートは走る。
電動カートに乗っていた時間は40分ぐらいはあったのだろうか、まだ日が沈んだあとの黄昏時がコロンス島の異国情緒を見せてくれるほんのつかのまの時間をぼくは目を凝らして眺めた。
やがて緩やかな丘をのぼる頃にはほとんど周りは闇に包まれ、足元の石畳の小道だけ10m間隔にちいさな灯かりで照らされている。
「こんなはずではなかった筈。」
ちいさなぼやきが口からもれる。
やがて海岸線に出てくると、急にライトで照らされた白い砂浜や美しい景観が浮かび上がって見えた。山中の闇がうそのような景色にぼくは、あわててカメラをだす。
せっかく憧れていたコロンス島にいながら証拠になる写真もないではここは(夢かまぼろしか?)になってしまうではないか。
シャッターを押す指にも思わず力がはいる。
ひとまわり(?)したのかさえもわからないコロンス島の闇の観光を終えて、見覚えのある桟橋にもどったのは午後8時20分、もう立派な宵闇の真ん中にいた。
せっかく来たのだから、せめておみやげでも、と思いぼくらは近くの石畳の坂に連なるみやげ店を覗きながら歩いた。
坂を上ったり下がったりするうち、迷路にはまってしまい
ふたりして左だ右だ、「上に上ることはないだろう。海は下に決まっているから、」とガイドとはいっても偉くんもコロンスの闇の世界は苦手らしく、こうなると買い物どころではなく桟橋探しに時間を費やしたのだった。
船から眺める本島のライトアップされた建物は上海浦東とまではいかないまでもすばらしい夜景だった。中国政府がすぐ近くの台湾に対して威信をかけてアモイを発展させるという意気込みを感じさせる光景にみえた。
本島にもどった偉くんとぼくはアモイ島の繁華街である中山路(歩行街)でほんものの海鮮料理を食べることにした。
いろいろな都市の「歩行街」をぶらぶら歩く(中国語でぐぁん ぐぁん じぇという)のはたのしい時間である。
アモイの歩行街(中国語でぶ しん じぇという)は華やかさでは長沙や成都には劣るようだけど海に近いせいかわれわれ日本人には懐かしさを感じる香りがする。
どこの街にでもあるケンタッキーとマクドナルドの大きな看板をながめながら、やはり多い海鮮料理店の中から1軒をえらんで中に入った。
水槽に元気よく泳いでいるアジとタイを選んで料理法を告げる。でも、塩焼きとから揚げをオーダーするのにとても手を焼いた。中国には塩焼きの習慣がない。
今度、日本に帰ったら留学生に魚の日本式料理法の中国語をぜったい学ぶべきだと痛感。
こうしてアモイの最後の夜は終るはずだったがこの夜もこりずにお気に入り日月亭按摩所の足マッサージに足が向くのである。
日月亭按摩の可愛いお茶酌み小姐・小連香ちゃんとのアモイの夜のときめきのシーンは果たして再現するか・・・。
目と目を合わせ、微笑を交わすだけのとても淡くて純?なシーンが展開するだけなのに、
でも、なぜだろう、このぼくの胸騒ぎは?
彼女は前世で会った妖怪おんなだろうか?
むかしの本を読んでいて、開いた頁に挟まれた薄黄色な押し葉に、ふいに出会ったような、忘れていた 遠い昔の自分に引き戻される懐かしさ。
記憶を喪失した中年男によりそう16歳の小連香との『シェルプールの雨傘』(仏映画)のベンチ(ベッドではありませんぞ)のシーンをアモイの夜の足マッサージ屋で思いだす。
・・・・・・と、勝手に訳の分からない理由をつけて今夜もアモイの夜は更けない。
さて、ぼくのひいきの171番は右手にトンカチを持って待っているだろうか。
そして、茶を注いで廻る小連香とのバーチャルな相(eye)恋の結末はいかに・・・・。
ぼくは五木寛之風にいえば『年甲斐のない生き方』を続けていきたいと思う。
「年をとると何でも衰えてくるね。」
そういう人に限って、何もしたがらない億劫な人間が多い。使わない脳が退化していくのは当たり前で遠い昔の錆付いた鍵のかかった記憶だけが残っている。
億劫な年寄りは、脳のシワが消え、顔のシワだけが増え続けていることを知らない。
むかし赤い表紙の英語の単語帳があった。『旺文社のまめたん』と言ってた。
赤尾好男という人(社長?)が表紙の裏に写真入りでコメントが書いてあった。
「人間は忘れる動物である。だから忘れる以上に覚えることです。」
と,活字ではなく自筆?のペン書きで印刷されていたようにおぼえている。
ぼくは一生懸命暗記しょうと努力をしたが1頁目のアバンダン、アビリティからなかなかページを繰るところまで覚え切れなかった。けれど、このことばだけはしっかり脳に保存されている。
つまり人生にチャレンジし続ける人は体験を増すごとに脳のシワが増え続け衰えることを知らない。自然消去は老若に関係ないのだ。要は体験(英語でいえばアクション)を重ねていくことだ。
魅惑のアモイで寄り道してしまったようだ。旅にもどろう。
さて、左の写真のコロンス島の夜景後を見ていただきたい。
時間通りに書くと今、19日朝10時、アモイ空港のVIPルームに居る。
ピンクの制服を着た服務員にパスポートと飛机票(搭乗券)とスーツケースを預けるとあとは服務員が「席は何処がいいですか?」「窓側でおねがいします」
それだけで終りである。
昨日、肖社長が
「あした朝空港まで送りますよ。せんせいはVIPルーム使ってください。」
と、ニコニコしながらぼくに告げた。上山氏のお付き合いのお蔭だとは分かっていてもこれほど親切に世話をしていただくと恐縮してしまう。
「飛行機に乗るまでここでゆっくり寝てもいい、飲んでもいい、好きなように過ごしてください」
そういい残すと上山氏とふたりで帰って行った。
下:帰るまえに肖社長と二人で写したスナップ
10:25分
服務員と話をしたり、置いてあるパソコンを借りて久し振りに協会のHPをのぞいたりしていた。そこへ服務員がやってきた。
「あなたの乗る予定の飛行機、すこし遅れます」という
「どれくらいですか」と,いうと「わかりません」と、返事が返ってきた。
もう飛行機のデレイ(遅れ発)には驚かなくなった。
朝、上海の李黎に11時にこちらを発つから虹橋に迎えに来てと電話をした時も、大体1時間ぐらいは遅れるかもしれないよ、と伝えておいた。
やれやれと思っているところにまた、可愛い服務員がやってきて
「12:00に出発します。」と告げる。
何とまた1時間の遅れである。きょうは心配ない。いつもだと刻々変わる情報に目は電照看板と乗客の動きに神経をとがらさなければならないけどなにせ特別室にいるのだ。
ここにはぼくを除いたら美しい制服を着た美人の服務員数名がいるだけなのだから。
退屈になったのでみやげものでも探そうと一般搭乗口のあるビルへ行ってみることにした。
なんと、遠い遠いのである。
この空港、こんなに長いのか?往復に15分ぐらいかかりそうだ。着いてみたら広い割には売店が少ない。これといったものもないのでまたVIPに引き返す。
11:35分
服務員がやって来た。
『これから飛行機へ案内します』と笑顔が言う。
一人なのに、一般と同じ身体検査を受ける。ピーと鳴ったので、笑いながら服務員が身体を上からなぞる。ピンクの服務員がぼくのカバンを持ってくれる。出口から機まではピンク美人が歩いて先導だ。チョットいい気分である。
多分、機にはまだ誰も乗っていないと思って中にはいったら、何と、もう全乗客が座っていた。この調子だと飛行機の出発は0:00定刻通りにちがいない。明るい南海の日差しがまぶしい。
11:50分
まもなく離陸、という時、突然、ぼくの手机が鳴った。
普段なら電源を切るのに、忘れていた。仕方ないので分からないように繋いだら李黎からの電話だった。
「太太(奥さん)の十二支はナンデスカ?」と言う。
十二支が12時に聞こえた、しかも今離陸前の、掛けてはいけない状態なので慌てていた。
ぼくは出発時間の確認と早合点をして
「そうだよ、定刻通り、十二時に飛ぶようだよ。今、飛行機の中だ」
と、中国語で答えると、
「ちがうよちがうよ」
と李黎は日本語で答える。
そのあと、ようやく彼女がぼくの家内の干支を聞いていることを理解するまで下を向き、ヒソヒソ声の会話が3分は続いた。もう切ってしまおうかと何度も思った。
実をいうと、 ゆうべ、ここで土産を買おうと思っていたが、見つけに行く時間がなかったので急遽、李黎に電話して、瑪瑙の印鑑を何個か、李黎の知り合いの店に注文するよう頼んでおいたのを思い出した。
その中に家内の分も頼んでおいたら李黎が家内の分だけ干支を入れてあげようと気を利かせてくれたのだった。(不好意思! 実在対不起!!)
こうして今年のぼくの『中国ぶらり旅』はおわった。
ぼくの旅とは、一体、なんだろう?
なぜ、ひとは旅に出たがるのだろう?非日常世界との体験という人も多い。でも、見知らぬ土地で、見知らぬ人の,、解からない会話の中で、その人たちとの日常生活を共有し体験するたのしさは大きい。
それを実現するためにおおきな努力はいらない。
少しの時間と、そこそこのお金と、歩けるだけの健康に、あとは、少しばかりの勇気さえあれば、少なくとも中国の今の旅は実現する。
ぼくの生まれるすこし前から10年ほどの間、自分の同胞達がこの国のひとびとに行った残虐な行為のかずかずに、おなじDNAをもつ一人の人間として、心の中でいつも詫びながら、ぼくの『中国ぶらり旅』は続く。
そしてー
訪れた多くの寺院やすばらしい風景、歴史をかたる史跡のかずかずは映像や雑誌でまた再見する機会があると思うけど、そのとき、ぼくがふれあった多くの知人や、その時だけ、触れ合った名も聞かなかった人たちとの一期一会の出会いを忘れない為に、
この紀行文を書き続けたい。
左の人たちはこんどの旅で知合った人々。これ以外に語り合い、笑いあった旅の途中で出会った人の中で、うっかり写真を撮るのを忘れていた多くのひとがいました。
ここまでお付き合いいただき感謝!
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