北京

Bei jingベイ ジン

2006・9・15~16

北京は今回の旅行では当初、通過都市ぐらいに考えていた。

出来れば王府井近くに宿をとって北京オリンピックに向けて一部取り壊されつつある胡同(フートン)めぐりをするか、故宮の城壁にでも上ってみたいと思っていた。

じつは北京はぼくの生まれ故郷で、4,~5歳ごろまで育った街だった。

おぼろげではあるが当時2歳年上だった兄と石壁にのぼって遊んだ思い出がある。

子供の頃、そこが万里の長城だと信じていたが大人になって考えると、長城はとても遠すぎて遊びに行けるような場所ではないのが分かった。

そこでもしかしたら故宮の城壁だったのではないかと思ったからだ。

両親が他界するまでは自分の頭の中に、小さい頃のことや、その頃過ごした北京の街のことなどまったく関心がなかった。

それでも当時の家の中での出来事や近所の様子などはときどき家族で話すことはあったが。

かんじんの我が家が地図の上でどの辺だったかなどは聞いたことはなかった。

そもそも中国自体に関心がなく、まさか今のような状態など想像だにしなかった。

さて話を15日の朝の大同市にもどすことにする。 

8時に大同駅前に着いた。

「混んでるからここで降りてくれ」、とタクシー運転手がぼくを下ろした場所はなんと白タクのいっぱいいる駐車場の前だった。フロントガラスには行き先の書いた紙が貼ってある。

「何処まで行くのか?北京なら150元でいいよ」と数人の白タクの客引きが言い寄って来た。

汽車で行っても硬寝台で103元かかる。硬座だと53元だけど硬座列車で6時間乗るのはきついナ、と思っていた。150元で、タクシーで北京市内まで4時間で行くというのは魅力だと思った。

左:北京行きの白タク3人で350元 右:ぼくの後ろにいた太原行面包車(マイクロバス)

汽車の出発は8:50分、北京駅着が3時、それからホテルまでまたタクシーだ。

一方、白タクだと昼過ぎには北京に着いてしまう。

北京での宿は昨夜のうちに任さんが勧めてくれた『台湾飯店』を予約しておいた。

台湾飯店は王府井にあるので、もしかしたら故宮や胡同なら今日の内に廻れるかもしれない。

またぼくの脳は、(楽な方へ、楽な方へ)と計算が駆け巡る。

そして結局、「時は金なり」に半分以上傾きかけていた。

とそこへ又、別の客引き女が割り込んできた。

「アナタ、マイクロバス 乗らないか?一人欠員があるので90元でいいよ」と言う。ナニ!汽車より安いじゃないか。

みるとなかなか車体も悪くない。でも、むかし寧波(ニンポー)で普陀山に行ったとき乗ったマイクロ面包車は舗装したハイウエーを走っていたにもかかわらず、がたがたがお尻を刺激して苦痛の時間を過ごしたことを思い出した。

サスペッションとタイヤを確認したらまだ新しいようだ。 所要時間もタクシーと一緒だと言う。

ということで結局、ぼくはマイクロバスに乗って北京を目指すことになったのである。

ところで大同を発つ前にひとつ気になることがあった。

それは五台山に行く前に劉氏に戴いた掛軸を部屋に忘れて来てしまったのである。

途中、気づいてホテルに電話をして捜してもらったのだが見当らないという返事だった。

夕べ遅くホテルに着いたので早速マネージャーに訊いて見たがやはり見つからなかったという。

せっかく下さった劉さんには本当に申し訳ないことをしたものだ。

さて、マイクロ(面包)車は快調に飛ばし北京近くに着いたのはまだ正午前だった。

ところがここにきて交通事情のことで任さんが言っていたことが現実になった。

片側2車線(3車線だったかもしれない)のハイウエーの右車線に動かない大型トラックの列が何キロも続いているのだ。

それはもう(何処までも続く)の表現がぴったりの状態だった。

眺めると、車から外に出て数人でトランプをしている人たち、タイヤ交換をしている人もいた。

さいわいにマイクロや乗用車は左側車線を走れた(多分車線分けをしているのだろう)けどそれでも、北京の市街地まで1時間はゆうにかかった。

結局、北京市街地にマイクロが着いたのは2時は過ぎていたと思う。

めざす『台湾飯店』は地下鉄1号線王府井駅を降り、.王府井の繁華街を抜け一番目の道を右に折れ、150mも歩けば左側にあった。通り名は、わかりやすく「金魚胡同」という。

もうかなり古く見えるホテルである。

三ツ星ホテルで料金は800元ぐらいの中級ホテルであるがショッピングや市内観光にはすこぶる便利なホテルだと思う。

一階のロビー横には日本料理店『江戸川』があり。多分、日本人観光客が多いのだろう。

ほんのすぐ近くに「王府井百貨大楼」や「新東安市場」があるにもかかわらず細い路地に入ると昔の小さな店や住居があって落ちついた庶民の町、そんな感じがした。

台湾飯店の隣には『和平賓館』があり、斜め向かいにもかなり大きいホテル『王府飯店』が建っている。金魚胡同はそんな通りである。

ホテル内でする事がいっぱいあった。

愛想のよさそうな女服務員がインフォメーションコーナー(つまり交通チケットの斡旋や団体ツアーの斡旋,紹介etc・・・)に座っていた。さて、今からすることは、

○ あさって行くアモイまでの航空券の手配。
○ 明日何処へ行くか相談と申込。
○ 胡同にはどうすればいけるのか?の相談。etc・・などである。

まず、アモイ行きの航空券を購入しなければならない。

●北京~アモイの所要時間が2~3時間。上山さんが4時前後着なら迎えに来れるというので、それに甘えるとしたら何時に北京を発てばいいかを計算してみた。遅くとも正午より前の便になる。

余裕をみたら11時発かなと計算した。北京空港までタクシーで1時間半とみて、ホテル発を9時半。朝ご飯を食べてちょうどいいかな。

ということで服務員に航空便を調べてもらったら8時半の便の後は12:05発だという。まさかホテル発を6時半というのはないだろう。12時5分発で丁度いいだろうと、それを予約した。

●つぎに明日の現地ツアーをどこにするか?コーナーの横にあるスタンド看板に張り紙がしてあるのが目に入った。上から、八達嶺長城ツアー、司馬台長城ツアー、頤和園ツアー、市内ツアーなどが料金と共に書いてあった。

「頤和園」はいちばん行きたかったけど、妻が北京の観光地が出るテレビを見るたびに 「頤和園だけは私も行ってみたい」 と言っていたので、そこだけははずすことにした。

服務員の早い中国語での説明はまだぼくには無理が多い。

しかも彼女は、ぼくの苦手な北京語の発音で喋る。 語尾がアール化していて、話の内容が聞き取りずらいのである。

来る前にグローバルの深栖さんと司馬台長城について話したことがあった。

「八達嶺に較べるとやはり長城に来た、と言う感じがしますよね。ちょっと遠すぎますけどね。」

と深栖さんは言っていた。じゃ「司馬台長城」にしてみよう。そう思ってよくみると決行の曜日がとびとびになっている。

行かない日もあるんだ、と思いながら見るとちょうど明日が決行日になっている。

そこにきめる事にして280元の参加費を服務員に差し出した。

それでも彼女がなにやら例の北京語で話しかけてくる。

早口と「はひふへほ言葉」でさっぱり内容が理解しにくい。仕方なしに相手の言うことが分からないときにぼくがよく使う「明白了」(わかりました)と返答しておいた。本来なら「不明白」だが、どちらでもいいと思ったときや不利な結末にならない時などは面倒なので、つい言ってしまう。

「ホテル前に、朝8時半にバスが迎えに来ます。」というところだけはよく分かった。

30分ほど、この『旅遊コーナー』で時間を費やし故宮を目指した。

もう4時が近かったけど和平飯店まで歩いてわずか5分で来た。そして天安門広場に10分ほどで到着した。なるほど台湾飯店は便利な場所である。

まだまだ世界中からの観光客で天安門付近はいっぱいだった。

急いで午門をくぐると、すぐ右の方に「城壁登り口」があった。以前、ツアーで来たときは目に入らなかった。入場料が15元?ぐらいだった。

城壁の上から周囲を眺めてみたが幼いころの記憶は甦ってこない。ここではなかったのだろう。やはり遊んだのは別な所だっのか?永遠の?である。

今の故宮は改修中の建物ばかりである。大和殿、中和殿、乾清宮などほとんどの宮殿が改修のため幕で覆われている。撮ってもしょうがないと思って撮らなかった。(一枚ぐらい載せたかったけどその時は思いつかなかった。残念)

『珍妃の井戸』を見てみたかったので乾清宮から→の案内板を頼りに右折した。

『珍妃の井戸』は以前、浅田次郎の小説で読んでいた。ここでは定説としての珍妃の話を載せておくことにする。浅田次郎の小説は定説とは違います。

時に清帝国の末期、出世欲と権力欲に取り付かれた儒教官僚と宦官の退廃政治。
自らの手を血に汚す事で最高独裁権力者にのし上がった西太后。

彼女によって幼時より名ばかりの皇帝に擁立されながら ついに康有為を中心とする革新官僚とともに政治維新に立ち上がったものの あえなくも失敗、幽閉の身となった光緒帝。

光緒帝とともに維新の夢を追い捕らわれた皇帝最愛の側室・美貌の珍妃。

義和団事件を口実に牙をむいて北京に攻め入る帝国主義列強8ヶ国連合。

西太后は青衣に身をやつし、囚われの光緒帝、珍妃、側近ともども北京城脱出を決意する。

西太后の命に反抗する珍妃。“皇帝陛下は北京にとどまり洋鬼子と和議にあたられるべきでありましょう”

西太后は激怒する“即刻そこなる井戸にぶち込むが良い!”

実際に見た井戸はあまりにも小さかった。

四角いつるべの付いた日本の井戸を想像しているとビックリ仰天ものである。

ある説では(あとで造り替えた)又ある説では(身体をばらばらにして投げた)とかいわれている。西洋でも有名なのか欧米人の見学者が多い。

中を覗いて見たが一応、暗かった。

ちいさな石ころ(その辺にありそうだった)を投げ込んで見たい、ふと、そんな気がおこった。

もしかしたら実際にそんなやからがいるかもしれないと思った。

横のちいさな建物に珍妃の写真が祭ってある。(写真右)下の光はフラッシュの跡。

敷地(畳10畳ぐらい)全体の写真は左にある。

ここはもう裏門の近くである。門を出て左に300mぐらい歩くと裏門『神武門』がある。(左写真)

つぎに行く『景山公園』入口(写真左)は『神武門』と景山前街を挟んである。

景山は高さ43mで頂のある「万春亭」から故宮や周辺の景色が一望できるというので絶対行って眺めて見たいと思っていた。

ところが残念至極とはこのことである。左写真の通り緑の塀で囲われ中には入れなかったのである。仕方がないのでHPで「景山からの眺め」で探した画像を載せる。

左写真は工事の壁と壁の間から写した「万春亭」とそこから見えるはずだった景色。(右2枚)

ここまで来たのだからついでに『景山公園』の西側に広がる有名な『北海公園』を訪ねることにした。まだ時間は5時前である。入口付近で大勢の客引きがいて胡同に行かないか、と言ってた。

あとで後悔したのだが、あのとき『北海公園』をやめて胡同めぐりをすればよかった、と。

ここが胡同めぐりの場所とは知らなかったのである。

さて、北海公園の説明をしよう。HPより引用して載せる。あまり面白くないかもしれないが。

北海公園は北京の中心部に位置し、最も長い歴史をもち、最も完全な形で残る皇室庭園の1つ。千年近い歴史がある。

北海公園は、庭園の歴史のなかで芸術的な傑作だと言える。面積は69ヘクタール(うち水面が39ヘクタール)。?華島は樹木に覆われ、宮殿や仏閣が並び、亭や楼閣が交錯して趣がある。中央に聳える白塔はまさに、北海公園のシンボル的存在。湖岸をめぐる垂れ下がった柳が湖に映して美しい。

霧が立つと、島の上にある楼閣が見え隠れして、まるで仙境のようです。中国古代の神話には、海上に三つの仙人が住む山があり、その島に不老不死の薬剤があるという言われがあります。

冬になるとここの池は氷結してしまう。小さいころ氷の上で母や兄と遊んだ記憶がよみがえる。多分ここ北海公園の池だったのかもしれない。

今は美しいピンクの蓮の花がいっぱい(写真左)の池を眺めながら北海公園をあとにしたのだった。

北長街から南長街をぬけ天安門広場にさしかかると丁度、国旗降納の時間前なのだろう、いっぱいの見物人が集まって旗を見上げているところだった。(写真左)和平飯店の近くまで来て、西の方を見ると沈みかけた太陽が彼方にぼんやりと小さく見えた。時にはビルの間に信じがたい巨大な夕日を見るときもあれば、このように遠くに小さく見えるときもある。?????なぜ。

17日の朝 8時前に食事を終えて下のフロントにおりたので近所を散歩してみることにした。

ときおり、通勤の人を見るぐらいで小道には人はいなかった。小道の間に、まだ小さい小道がある。小型車がなんとか片方だけ通れそうな路地である。

左にぬけるとあの王府井が、右には東単の大通りに挟まれた区域と思えない静かな街がそこにはあった。

やっぱり、すんなり行かないものである。迎えに来た面包車の導遊(ダオヤオ)つまりガイドさんに行き先を確認したら八達嶺ツアーだという。

『司馬台ツアー』は現在は土曜と日曜だけのツアーなんだという。昨日の服務員の説明はそうだったのか。普通なら、その程度の説明なら理解出来るのだけど「はひふへほ中国語」にやられてしまった。

「没ばん法」(しかたがない)

カラフルなマイクロバスが迎えに来た。このホテルからあと2人参加するらしい。すでに黒い外人が4人、アジア系が2人それにぼくの9人グループのようだ。陽気な外人4名の国籍はブラジル人2人、メキシコ人2人である。メキシコ人のカップル(多分夫妻だろう)は共に、巨体である。

八達嶺に着いて「滑車」なる乗物に乗るとき断られるのじゃないかと順番待ちの間中心配していた。 マイクロバスでも二人分のイスをひとりで座っていたから。

歩く時の格好は小錦にそっくりである。一人乗りジェットコースターのような『滑車』から降り、細い階段を上がると長城の途中に出るようになっている。

わずか50段もない、でもかなり急な石段を上り終わった彼・小錦くんはアリのようにはるか連なる人の群れを眺めていたが急に足を止めて両手をかるく広げて見せた。軽く首をかしげて言った

「オーゴッド!」

結局、彼と連れの女性はその辺で記念写真を撮りあっていたが又来た階段を降り滑車で戻って行った。

7年前に長城に来たときバスで着いた広場がはるか下に見えた。(写真下左)

上の方にリフトのような索道(スーダオ)のようなものが見える途中に砦が二ヶ所ある。せっかく来たのだから、と次の砦まででもと思い登りはじめた。

ここでの自由時間が100分だった。降り口で待合せることになっていたけど9人(ガイド含め)のメンバーはそこには誰もいなかった。15分ははやく来たつもりなのに誰もいないということはもう滑車で下におりてしまったのだろうか。どうすればいいのか迷う。

下りの半券は渡されているので問題ないが、そう思いながら降り口に並んだ。ガイドの携帯番号を聞いておくのだった。いつもは必ずそうすることにしているのに、と後悔していたらはるか下の方(写真上右)にホテルから一緒だったアモイから来ていた女性をみかけてホッと胸をなでおろした。

左はアモイの二人。 右はガイドさん。

ちなみに往復の滑車代金は60元(昼飯代が込みだったかもしれない)上り下りの待ち時間が合わせて40分はかかった。週末だったらこの倍はかかるだろう大変だな、まあ日本でもディズニーを思えば同じか。

ぼくらは昼食をたべてそのレストランも巨大な宝石の友誼商店のなかにあった。そのあと2箇所の友誼商店を廻ります、とガイドは言う。なにしろガイドの収入は自分のツアー客が友誼商店で買い物をした売上の?%だけで、他に収入はないのだそうだ。そりゃ、たくさん連れて行きたいでしょう。

次は『茶館』に行きまーす、という。このあとの観光めぐりは「明の十三陵」に行くんだそうだ。前に一度行ったところである。出来ればこのまま北京に帰りたかったけど、チョット遠いかな。

お茶の友誼商店では、国々に合わせてその店の担当がつくという。それぞれ個室でお茶をたててもらい説明を受け、欲しければ買う、という中国旅行者なら必ず経験のあるパターンである。

ぼくはガイドに「説明不要」と言ったら、英語の組に入らされた。

例の4人のブラジル、メキシコ組だ。説明を受けて飲まされているうちにどうも小錦さんが買う気になったらしい。

どうやらダイエットに効くお茶だと言われたようだ。一日?杯を一ヶ月続けたら?㌔痩せるとでも言われたのだろう。まさかと思っていたがやおらポケットから100元札を何枚か取り出し支払った。

ふたりとも太り過ぎなので女性の方も賛成なのだろう。

「明の十三陵」を見終わると帰路に着く。

そろそろ3時が過ぎていた。北京にも近づいていた。聞くとあと一ヶ所、『西蔵薬草店』に寄るんだという。その手の店には四川省で何度も行ったことがある。

ぼくはそこに着いたときガイドに言った。「気分が悪くなったのでここからタクシーで帰る」と、

すると、アモイからのふたりが「あたしたちも一緒に乗せてください」「可以』とぼくは答えた。

車中、実はぼくは明日、アモイに行きます。と言ったらビックリしていた。

「アモイはとても美しい街です。」と観光地をいろいろ教えてくれた。やはり、コロンス島が一番です。それと、南普陀寺を勧めますとのことだった。

彼女は子供が天津の大学に入学が決まり、自分だけ帰りに北京の観光をして帰るんだと言っていた。

明日は18日です。北京空港からアモイへ向かいます。