五台山

Wu tai shanウータイシャン

五台山は、峨眉山、普陀山、九華山とともに、仏教四大名山のひとつで、文殊菩薩の道場とされてきた。山頂が平らかな5峰から形成されているため五台山といわれるが、別名を清涼山という。最高峰の北台頂は標高3058m,夏でも涼しいことから、こうよばれたのである。

他の三山と異なり経典に名前があるため、四大仏教聖地のなかの第一の聖地とうたわれる。雲崗石窟と同じ、北魏の時代に創建された寺院が多いが、南北朝時代には200余、最盛期の唐代には360余の寺院があったといわれる。

文殊の聖地五台山は仏教者のあこがれで、インド,朝鮮、日本からも巡礼者が絶えなかった。(引用:『週間中国悠遊紀行』14より)

・・・・五つの峰の内側は台内と呼ばれている。代表的な寺は菩薩寺,顕通寺、塔院寺などでそれらの集まるところを台懐鎮寺廟群とよばれている。上の写真は最後に登った黛螺頂の頂より台内を望む。拡大します。→

↓ところで、たべものの話を少ししたいと思う。

山西省の料理はとても美味い。ぼく好みの味です。大同市で2回、五台山で2回、ガイドの任さんと一緒に食事をした。

ご当地の評判の店に連れて行ってもらったせいもあるのだろうが名物の刀削麺などは気に入って食事の度に食べた。

(下左はタレを麺にかける食べ方。その逆で日本のざるそば式もある。)

他にも「これは山西省の名物料理です。」とか「これは大同の特産菜です。」とか、そんな類の料理がとても多い。そして、そのすべてが真好吃(本当においしい)のである。

米飯(ミーハンという)も、内モンゴルでは粒がちいさくポロポロしていたけど当地のそれは日本の(・・ひかり)並み?だった。

五台山名物の「粟の団子」も大同料理の「ぶたの耳」も印象に残る名物料理だった。

とくに五台山は水が良いのだそうだ。世界に名高い「北京料理」の原点は山西料理にある、といわれているのもうなずける。

大同で昼食で、いつものようにぼくがビールを飲んでいた際の会話。

「白さん(運転手)あなたは 昼は飲めないから今夜、夕食のときにでも一杯やりませんか?」と誘い、そのあと当地の酒の話になった。

『ところで山西省の酒は何ですか?」と尋ねると彼は

「山西省は黒酢が有名ですが、もっと有名なのがあります。それは汾酒です。」

とすかさず返答した。

「それは白酒ですか?」と、さらに訊くと

「そうです、汾酒はとても美味しい酒です白酒の本家といわれています」という。

「では、今夜は汾酒(フェンジウ)で乾杯しましょう。」ということになった。

左の男性が白さん(32歳)そして、右が汾(フェン)酒

いくつかの峠を越えて目的地「五台山」に着いたのはすっかり暗くなってからだった。

左手に川をみながらクルマは売店の並んだ街を通りすぎさらに10分ぐらいは走ったところに目指すホテルはあった。

クルマから外に出ると思わず身震いしそうな寒さだった。

「ここは五台山では大きい方のホテルです。」と任さんは言うけれど部屋に入ってみると,やはり市内のホテルとは違う。

3年前、家族で安徽省の黄山に行ったとき、山頂ホテル(青海飯店)に泊ったが、部屋に入った瞬間、そのときの記憶がよみがえってきた。

部屋から受ける感じがそっくりなのである。暖房は効くそうなので『フフホトの草原の包』よりはまだ、ましかなと思った。

夕食は9時を過ぎていた。ホテルの食堂ももうほとんど片付けられていたのを任さんが支配人に無理に頼んで料理を作ってもらったようだ。メイドの小姐たちもいかにも不機嫌そうだった。

そりゃそうだろう片づけが終る頃にまた客なんだから、とおもいながらイスにかけるとまだ15,6才の子供のような小姐が二人、ビニールのテーブルクロスをかけに来た。

「謝〃」(ありがとうね)というと、無理に笑ったようにみえた。

(酒でも飲んで、売上に協力してあげなきゃ、)と思い何本かのうち高そうなのを注文した。

白さんが自慢していた汾酒は確かにおいしかった。30度 ,40度 ,50度と度数があるらしい、その時飲んだのが何度だったか忘れてしまったけど口あたりのいい甘くてまろやかな味だった。

飲み干したぼくの顔を「どうでしたか?」というような顔をして白さんが見ているので

だまって、空いてる手で親指一本のVサインをつきだして見せた。

中国人がとても満足したときによくやるポーズで一度やってみたいポーズだった。

300mlほどの小瓶を白さんと空け、すっかり出来上がってしまった。

暖房のきいた部屋に戻った時は10時半頃だった。

蒲団?はうすく、クリーニングはしてあるようだがシーツは湿り気があり、かすかにカビの匂いがした。

こんな時のために用意してきたトレーナーを着て、顔には掛フトンとの間に両面起毛のタオルをかけ眠りの態勢にはいった。でも寝心地はこうして書いているほどいやではなかった。

後で復元した写真と、 カメラが直って写した五台山のホテル

2006年9月13日(水)

五台山での朝、雲ひとつない中国ではめずらしいぐらい空は青く、高かった。

朝食の時間は8時半までと言われたのでもう昨夜のうちに朝飯抜きをきめていた。

昨夜の汾酒が効いたのか8時ごろまで目は覚めなかった。

外に出て念のためにもう一度デジカメを操作してみたら、何と、液晶画面にホテルの玄関がくっきりと写っていた。今日は売店で、昨日よりはましなインスタントカメラを買おうと思っていたところだった。カメラも疲れていたのだろうか。

あとで分かったのだけど、包頭で砂スベリをしたとき、ジーンズの右ポケットにデジカメを入れていたのが原因だった(推測)。というより、ジーンズのポケットの底ににあのきめの細かい砂が入ってしまったのだろう。全身、砂だらけになったけど,その後、何枚かは撮影出来た、後からレンズの出入りが変なのに気付いてはいたが。

あとで分かったのだけど、包頭で砂スベリをしたとき、ジーンズの右ポケットにデジカメを入れていたのが原因だった(推測)。というより、ジーンズのポケットの底ににあのきめの細かい砂が入ってしまったのだろう。全身、砂だらけになったけど,その後、何枚かは撮影出来た、後からレンズの出入りが変なのに気付いてはいたが。

そういえば、敦煌の鳴砂山でも買ったばかりのサイバーショットで同じ経験をしたことがあlる。そんなときに限って、いつもはしているケースを忘れている。

それにしてもこれほどうれしい出来事はなかった。(おもわずバンザイ!)

結局、妻がいちばん楽しみにしていた懸空寺でのショットだけが一枚もないのが残念。

インスタントカメラで撮った分がどれほど写っているか、これもまた楽しみでもある。

まあ、30%ぐらいの確率でピンボケ写真にちがいない。

「わたしたちはまず菩薩頂から見学します」と任さんが言う。

実は五台山に来たもののぼくは仏教にそれほど詳しくない。その割にはなんと多くの中国の仏教寺院、道教、ラマ教、回教寺院を巡って来たことだろう。

菩薩頂は廟群(台懐鎮)の中ではいちばん高い所に位置している。顕通寺から108段の石段を登りきったところにある。任さんはいう

「わたしたちはクルマで石段、あがりました。下から歩いて上ると、とても急です、とても疲れます。」

菩薩頂は五台山にもっともゆかりのある文殊菩薩の居所と考えられている寺である。

しかし,清の順治帝以降、ラマ教に変えられ25あるラマ教の寺院の代表する寺院になっている。

中国四大聖山のことは先に書いた。それぞれ信仰する菩薩のことも書いたが、なかでも文殊は,舎衛国のバラモンの子で仏(釈迦)がなくなった後の実在の人物と言われている。

普賢菩薩(四川省・峨眉山)とともに釈迦の脇侍菩薩でもある。「三人よれば文殊の知恵」といわれるように智をつかさどる菩薩といわれているがそれは学問ではなく参謀としての知恵とか判断力に優れていたと言われている。

昔から伝えられえている『五台山の伝説』というのがあるので書いてみる。

・・・・・むかしむかし、五台山は五峰山とよばれていた。ここの気候は悪く、冬は水が凍り、春は嵐が吹き荒れ、夏は耐え難い暑さにみまわれる。作物は出来ず、人々は困っていた。 そこに文殊菩薩が伝教にやって来た。

文殊菩薩は助けてあげよう、そうだ、ここの気候を変えてあげようと思った。東海の竜王のところにある大石があつて、それは乾燥した空気を湿す力があるという。

そこで菩薩は老いた和尚に姿を変えその石を手に入れるべく東海に向かった。

文殊菩薩は竜王に会っていきさつを語り、どうしても人々を助ける為にこの石が欲しいと願い出た。すると竜王は申しわけなさそうに

「他のものなら何なりと差上げますがあの石だけはだめです。あれは、私たちが何百年もの月日をかけて海の底から持ってきたものです。もし、あの石を渡してしまえば、竜の子たちが休む場所がなくなってしまいます。」と断った。

文殊菩薩は自分が五峰山の和尚で人々を苦しみから救うために助けを求めて来たことを繰り返した。

竜王はこれ以上正面から菩薩の願いを断り難くなってきた。そこで、この老いた和尚一人であの石を運ぶことは出来まい、と思い言った。

「あの石はとても重い、もし、あなたが人の助けなしで石をお持ちになれるなら差上げます。」と答えた。

菩薩は礼を言って石に近づいた。その石に近づき呪文を唱えると巨大な石はあっというまに小さな石ころに変わってしまった。

文殊はその石ころを懐に入れ飄然と去っていった。

帰って来た文殊菩薩がその石を谷間に置くと、急に奇跡が起った。

長年の日照りで乾き切った大地は一瞬のうちに涼しい天然の牧場に化した。

こうしてこの谷間は「清涼谷」と命名され、人々はここに寺を建て、そこを清涼寺と名づけ、五峰山も名を清涼山と変えた。いまも五台山の別名として人々に呼ばれている。

仏教の経典にでてくる【文殊菩薩像】は獅子にまたがり、右手に剣、左手に経典
を持つのが一般的とされています。

経典は知恵の象徴、剣はその知恵が研ぎ澄まされている様を、獅子はその知恵
の勢いが盛んであることを表現していると言われています。

髪は1つ、または五つ、六つ、八つのまげを結っています。呪文の文字数と文殊菩薩のまげの数が唱え方により一致するのだそうです。

「 菩薩頂は清代には歴代皇帝の五台山参拝の時の宿所でした。」

「康熙帝が4回、乾隆帝が3回訪れています。」(左上4番目の写真が皇帝の宿所。)

108の石段を下りるとそこは五台山寺廟中最大規模をほこる顕通寺がある。

顕通寺はまた五台山の中で最初に、というより中国に仏教が伝来して最初に建てられた洛陽の【白馬寺】より少し遅れた後漢の永平年間(58~75)に建造された。

「顕通寺は五台山の青廟の代表寺院です。」 

「任さん、青廟って何ですか?」

というぼくの問いかけに、任さんの説明がつづく

「和尚さんの袈裟は青(灰)色です。そして、ラマ僧の衣服 黄色です。ラマ寺院のこと

黄廟といいます。黄廟の代表寺 菩薩頂です。五台山に99の青廟あります。」

顕通寺はさすがに広い、ある本には敷地面積8万平方mとあり、又別の本には4万平方mとある。洛陽の【白馬寺】もとてつもなく広い、巨大公園のように感じたったがここ建通寺も負けてはいない。

白馬寺のときは運転手ガイドのチャオさんを駐車場に待たせての独り見学だったので中の殿堂も飛ばしながら、ちょっと覗いては出る、といった按配だった。ここはそうはいかない。任さんにとっては一つ一つコースの説明が身についたリズムになっているのだろうから。

ときには「ここは大石さん、拝んだ方がいいです。」

といって、中国式の手のひらを目上にかざしてはひざまずく、これを3回くりかえし式礼拝をやらされる。(任さんはしない)。またあるところではラマ式のマヤ車を回させられる。

説明を受ける。中に入る。そのくりかえしで建通寺は正直、疲れてしまいました。

まだ続くのか、と思っていたら次の殿堂、たしか【無量殿】に来たとき

「あれっ、鍵がかかって中に入れません」という、そういえば周りに参拝(観光)客がいっぱい立ったり、座ったり、写真を撮ったりしている。

坊さんたちのお昼時間だそうだ。時計はたしかに正午をさしていた。

やがて横の通路を大食堂に向かうのだろう、手に椀を持った坊さんの大行列が通る場面に遭遇した。貴重な体験だった。このときも、ぼくのデジカメは撮影モードになっていた。

デジカメの解説書を見ていたらムービーの項目のところにムービーカットというのがあった。動画の1シーンを静止画にカット出来るという。さっそく試した画像が下です。

というわけで顕通寺の殿堂巡りを途中でやめてぼくたちはすぐ下にある【塔院寺】へと向かった。

【塔院寺】はもともとは独立した寺院ではなく、顕通寺の一部でした。と任さんはいう。

「あの白塔は五台山のシンボルです。高さは56メートルです。正式の塔の名前は釈迦牟尼舎利塔といいます。唐の時代に日本の円仁和尚がここに来て詠った詩があります。

・・・・・・・・遠く台頂を望めば、円く高くして樹木を見ず地に伏して遥かに礼し 覚えず涙を雨ふらす。

もともとチベット仏教式の塔ですが、下の部分は仏教式です。釈迦の他に、観世音、普賢、地蔵、文殊の四菩薩を安置しています。」 

すぐ近くにある万仏閣を見終わったら1時をすこし過ぎていた。「今から昼食をたべて五台山をあとにします。途中、木塔に寄って大同に帰りましょう。」と任さんが言った。

ぼくは、実は、もう一ヶ所、どうしても行きたいところがあった。

寺の名前も、由来も関係はなかった。ただそこに上って白塔を眺めて見たかっただけである。そこから台懐鎮を写真に収めたかったのである。

任さんに言ってみた。「昼ごはんは簡単に刀削麺だけでもいいですから、あの何とか山に登ってみたいですね。リフトで上り下りすれば30分もあれば大丈夫じゃないですか?」

「いいですよ」と任さんが言うので急いで食事をすることになった。

ところで中国人の食堂での注文の仕方だが昼夜関係なく注文する皿数が多いように思う。これは日本人のランチ、ディナーの感覚とは違うようだ。

「簡単に済ませて観光に廻りましょう」などという気持ちは日本人ならとる料理の数を少なくと思うのだが彼らの場合は急いで食べること、と解釈するように思える。

この日も次々と注文して8品は注文したかもしれない。例によって山西省特有の黒酢が小皿に入れて出る。(感想:うまかった。1時間はついやした。)

1番目はビールと黒酢、2番目は食べた食堂、3.4はすこしピンボケです。

黛螺頂はしばらく歩いたところからリフトを利用して400mを上る。別にハイキングコースと階段コース(1080段)があるらしい。 ぼくたちは躊躇なくリフト30元を選んだ。

一段が30センチと聞いてびびってしまった。

黛螺頂 の頂にある寺には五体の文殊菩薩像があることで有名なんだそうだ。五台山の五つの峰のそれぞれの文殊を象徴しているといわれる。

時間が気になって本当のところは寺の中は記憶から消えてしまっている。

それより、帰りは楽しいことがあった。

下りもリフトで下りるつもりだったが途中で男達が声を掛けてくるなにやら「チーマ、チーマ」と言っているようだった。横の看板で、その意味がわかった。

「騎馬(チーマ)馬に乗らないか?」と言ってるのだ。途端にぼくの心が動いた。

「任さん、馬で降りようか?」「いや、わたしは嫌です。」と身体を引いた。

ぼくはもうそのときは決心していた。この30度はある400mの山の上から馬に乗って駆け下りる快感に酔いしれていた。しぶる任さんを無理やり説得してぼくたちは騎乗の人になった。

馬は以外に大きい馬だった。フフホトの草原で乗った馬からすると30センチは高かったように思う。

石を踏み台にして乗った馬の上からの眺めは正直言って「こりゃ、落ちたら大変なことになるぞ。」そんな気持ちだった。

馬上から写真でも撮るなんてことはとても無理なことだ。

幅1mぐらいの小石をイレギュラーに敷きつめた山道を馬はひずめを石の上にしっかり安定しているか確認しながら下りていく、落馬より馬の方が先にこけるんじゃないか、その方が心配になってくる。

周囲を眺めながらパカパカ下りるなんてものではなかった。それでも、ときおり、土道になると、さすがに気分爽快だった。

料金はリフトより5元安い25元(400円ぐらい)だった。

あとで白さんに聞いた話だが、下り終ってから近くの馬場を駆けるオプションをすると別に100元ぐらい請求されるらしいので気をつけなければいけないそうだ。

ちょうど白さんが馬を下りるところにクルマを置いていたらしく彼はぼくが預けておいたインスタントカメラで写真を撮ってくれていた。ちょっとピンボケは仕方ないですが貴重。

五台山を充分に満喫したぼくらは、前の日に上って来た道より西側の方へ山を下った。目指すは【応県木塔】である。時計の針は2時40分を指していた。

「造られたのは遼の時代、西暦1056年です。、中国では最も古い、そして最も高い木塔といわれています。 形は八角形で外見は五層だけど内側は9階建てになっています。」

任さんの案内で中に入り、上にあがってみた。まったく灯かりはなく、真っ暗で、階段は急だった。ぼくは いつか行った信州松本城の天守閣へのぼる階段を思いだした。

「おととしまでは5階まで行けましたが昨年は4階までになりました。でも今は3階でストップです。上には上がれません。塔が傾いてきましたから危なくなりました。」と、いく重にも板木で補修された柱を、任さんは指差しながら言った。

もうすっかり暗くなった木塔をバックに写真をとり、ぼくらは【木塔】を後にした。

時間は5時。今から大同までは1時間ぐらいかかります、と任さんが後ろを振りかえり「夕食はわたしが美味しいところに案内します」とニコリと笑って言った。

ハイウエイの両脇に白い幹に緑の葉の繁る新疆ポプラ並木がどこまでも続いていた。

二日間ぼくの足代わりを果たしてくれたパサートは暗闇のハイウェイを大同へ向けてひた走った。

今夜は大同に泊って明日は北京まで5時間の汽車の旅が待っている。

この新疆ポプラは暗くて 写せなかったのでHPから拝借しました。