シーニン・タール寺
2004/5/23
導遊の袁くんと運転手急勾配60度の石段・北禅寺平地にあるイスラム寺院・清真寺清真寺以下、タール寺
西寧は・・・・
チベットのラサへ向かう陸路の玄関口という。チベット族や回族など多くの民族が行き交う街である。昨夜、ガイドの袁クンと屋台を回ったけど、本当に多くの民族が混じりあっているのを実感した。
もっとも、ぼくもハンゴレン(朝鮮人)に間違われたけど、日本語と韓国語の違いなど判るはずがないのだから、顔だって同じに見えるのだろう。
ダライラマ14世もこの近くの出身だというタール寺は西寧を南へ26km行ったところにある。
以下、タール寺
チベット仏教黄帽派の六大寺院の一つで、14世紀に生まれた黄帽派の創始者、ツオンカパ生誕の地として信者の敬意を集めている。敷地内には大金瓦堂、八宝如意塔、バター彫刻の立ち並ぶ回廊などがある。
とくにバター彫刻の仏像にはびっくりした。袁クンの説明で分かったのだが、堂内にある仏像群は、すべてガラスのケースに収められている。
バターが外の熱(気温)で溶けないようにと、サーモスタットで管理しているのだそうだ。
「電気ガ故障したらミナ トケテシマイマス。」
ぼくは何処に装置があるのか、と、ケースの隅々を捜したけれどとうとう見つけることは出来なかった。
仏像が解けた時の様子を想像してみたりとても興味深いところだった。
供えの場所には必ず小さなボール状の黄油(ホワンユ)バターのこと:があったけど、彼の説明を理解する事は出来なかった。
タール寺はとても興味深いお寺だった。他の中国寺(道教、禅寺も含めて)と一番違ってたのは仏僧たちの存在である。
とにかくその数が多いのである。いたるところ僧たちがいる。考えてみるとお寺に僧がいるのは当たり前なのかも知れない。
他の寺(日本の寺もそうなのだが)で修行僧をあまり見ないのは観光客の目の届かない場所が寺のなかに別にあるのだろうか。そういえば、寺内のそこここに、《請不進入旅遊客》と書いた立看板を見たことがある。
興味深いシーンが多いので記録して皆に紹介できればと思い、「写真を撮ってもいいのかナ?」とガイドの袁クンに尋ねたら、あまりハッキリした返事を貰えなかったので遠慮した。
昨夜は小燕子から珍しく長い手机(携帯)メールが届いた。
彼女からのメールはふだんはローマ字での日本文で交信することにしている。ほとんど用件だけの短文である。
多分、察するに、今日で彼女が僕のために作ってくれた旅行日程が終わったので、その意味もあってのメールなのだろう。
午後には西安に向けて飛び立つことになっている。
西安での4日間は知り合いの陳さんご夫妻との再会や一日か二日、念願だった《華山》の旅遊などは当地に行ってからの情況次第と思って、長沙への帰り日も未定にしていた。
・・・・・・小燕からのメールの一部です。
今度の旅行はどうですか?私家にいた、ズット雨でした。なんにもできなかった、貴方を思う時、心の痛みを感じられ;貴方を見る時、幸せだと思い;貴方と知り合うのは、縁であり;無消息の時、寂しい気がする。
片思小燕子。
ぼくにとってタール寺での体験はとても思い出深いものだった。
帰りに立ち寄ったチベットグッズも今までの他の寺院などにあるみやげ物とは違い、買い気をそそるものが多くあり、しかも安いのでまとめ買いをしてしまった。骨董品はほとんど偽物に違いないと思い控えたけど。
でも、ここで購入したほとんどのグッズは、お別れ教室のとき、我が愛する生徒たちに配ってしまった。
ところで、西寧では、タール寺のあと、山肌にくっついたような、きつい階段を上がり、道教の寺院・北禅寺に行った。あまりのきつさにぼくは、「もうお寺は結構です。」と言って、これから上は工事中だから策道(ロープウェイ)で行きますか?との袁クンの問いをさえぎり、山を下りた。
彼の話によると、このあと空港に行く前に,もう一ヶ所寺院に立ち寄る事になっている。と言う。「よしてくれょ!」と言いたい。小燕は自分がお寺好きなせいか、ぼくの旅程に、いくつ寺参りを入れたのだろうか?
「先生、だいじょうぶ、今度行く寺、ゼンゼン キツクアリマセン」と袁クンが言う。
清真寺は明代の創建で、緑と黄色のあざやかなイスラム寺院である。中庭では白い帽子を被った信者たちが、そこ、ここの椅子に腰掛けて熱心に教典を勉強していた。
大きな中庭のセンターに一本の線(幅1mぐらい)が引いてあり歩行路と書いてあった。
何も、わざわざこのひろい庭の中の細い線の上を歩く事も無かろうに、と思いながら本堂に行った。立ち入り禁止と書いてあり、覗いただけで来た道を引き返してきた。
結局、大したこともなく空港まで行く時間を引いても、まだ時間が余る。暑いので、入り口付近の石の上に座って時間つぶしをすることにした。
袁クンが言った。「この寺院は毎週金曜日がお祈りの日なんです。祈りの時間が近づくと、5000人以上の信者さんが集まり、お祈りします。」と、それで「歩行路」の意味が分かった。歩行路以外の場所は信者が座る場所だったのである。
実はここで、余り知らせたくないことを書かねばならない。いろいろ考えたのだが、旅の心得のひとつとして・・・・・。
ここの石段で休憩している時の事です。
ガイドの袁クンに運転手がなにやら難しそうな話をしている。
しばらく、ふたりで話をしたあと、袁クンがおもむろにぼくに話してきた。
「先生、実は今日のごガイド料を100元、これから空港まで送っていく車代として100元,計200元もらえないか?」と言うのである。
実は彼との話の中で、ぼくが「空港まではタクシーで時間と料金は幾らぐらいか?」と、聞いたら、タクシーなら100元ぐらいです。との会話を思い出した。同じ料金なら、彼等の送って貰ってもいいか?
しかし待てよ。《いままで、ガイド料は払ったことないゾ、》連中、悪巧みをしているな、と思ったのでぼくはこう答えた。
「そう、でも、今までガイド料は払った事はないよ。ツアー費に入っているのじゃないのですか?」
「会社からそうは聞いていない」と彼は言う。
・・・・本格的な中国語のやりとりが続く、今までは分かろうが分かるまいが、「対了。」分かりました。「明白了」了解しました。と答えて、済ませてきたが今度はそうはいかない。
考えてみれば袁クンには昨夜も3時間ぐらい僕に屋台を案内してくれ、世話になっているし、日本円にして1,500円ぐらいの付合料は払ってもいいかな、という気がしたのも事実だが、「そうですか、言うとおり払いましょう。でも、帰ってから長沙市の旅行社に報告したいので今から貴方の旅行社に寄って《受け取り領収書》を書いて印を押してくれ」と袁くんに言った。
二人のまた長いヒソヒソ話が続いた。袁クンが口を開いた。
「ガイド料は要らない」送り代だけでいいと言う。
解ればいいことで、ぼくは金が惜しいのではなく、騙す行為を許せないだけのこと、袁クンに言った。
「先ほど渡した200元は返さなくていいよ、100元は君へのぼくからの小意思(シャオイース)だ。」
二人はまた、こそこそ話をはじめたが結論が出たのか、「先生、申しわけないが、100元あげるのは先生の零銭(リンチェン)つまり、チップだという意味のことを紙に書いてくれないか」と言う。なかなかしたたかな感じである。
ハハーン、この運転手が首謀格なんだ、と思った。
とりあえず100元は返してももらい時間も来たので空港へ向かった。ぼくは後部座席から、この顛末を小燕に電話した。
「ウェイ!ニハオ、小燕!
昨天晩上我収到信・・・謝謝、号外、我現在座車・・・・・・・
実は、ここ西寧の導遊ガイドがこう言っているが・・・・」
「アンタ イクラ ハラタ?払ワナクテイイヨ アタシ ソチノ リヨコウシャ デワスル。」
と言って切った。ほどなく運転手の携帯が鳴った。運転手から携帯がガイドの袁クンに渡され、結構、長い会話が交わされていた。ぼくにはもう大体のいきさつが解っていた。
小燕から西寧国際旅行に抗議が入ったのだろう。
やがて、車が停車した。そして、袁クンが言った。
「会社が空港までの送料は貰わなくていいと言ってるので100元は先生に返します。あとの100元は領収がなければ受け取れません。」と言う。よほど、きつく会社に叱られたのだろう。
可哀相に思った。でも、これでよかったのだ。騙しが成功したら彼らは又同じことを繰り返すに違いないから。いや、性懲りも無くつづけるかもしれないけど。
ぼくは名刺の裏に、しっかりと、袁クン宛で100元は少ないでしょうが君の配慮に対しての、ぼくの気持ちです。と記した。
楽しい旅をありがとう。 大石・・・・・・・・・と。
袁クンはニッコリ笑ってその名刺をポケットに収めた。
空港で西安行きの飛行機を待っている時小燕からのメールが入った。
anata okane dosita kaesite morataka watasi si npai siteruyo
又もとの短いローマ字のメールだった。
ぼくの返信文は中国語で「謝謝我愛小燕」六文字だった。
次は西安に飛びます。