2014年10月作品
● さくら草
2009・2・ある頃 makomakoH
ある日、よし江さんがさくら草を持って来た。
彼女も勿論フラの仲間・坂田の住民・初詣も一緒だった。
娘さん夫妻、孫二人、ご主人と住んでいる。洗濯機を3回は廻すと言う。
私みたいに3日に一度洗う物が少ない,何か無いかと洗う人と訳が違う。
洗濯機の動いている間に飛んで来る。
大き目の鉢に6本植わったのと小箱に10本以上はあった。
次の日にさくら草を植えようと箱から外に出した。
その直後に電話が掛ったりして用が出来、家の中に入り・・・・昼食後たっぷり食休みもして、外へ出て見ると “何と”
さくら草の苗は跡形もなく消えていた。
その日は風の強い日だった。午後になって余計強くなってきたみたい、慌てた私は飛んで行ったと思われる前の休耕地を見に行った。
雑草の中に緑の苗が入っていたにしても、分かる筈も無い花が咲けばわかるだろうと自分を納得させた。
我が家のポストが壊れて(無理もない15年以上も金属性が海風にさらされて来た)このところ気にしていた。
それがその日に限って、郵便物が来ない。江戸川からも転送されて来る。
我が家に配達の無い事はおかしいと思い次の日訊いてみたら、喪中のハガキ二枚と広告みたいだったと言う。
これはまずいと鹿児島に偵察の電話をしたら、一通はすぐ分かった。
賀状の取り返し請求をしたら、自分の出した50円のハガキに525円かかった。
「元旦に届かない年賀状なんて意味が無い」
と母がいつも言っていた。だから遺言と思い賀状の受け付の開始日に出す。
喪中のハガキを出さないとならない方、12月10日までには出してください。
そうすれば書いてあっても5円の手数料だけで済む・・・・
もう一通は割に身近な方で、電話で話していて分かった。
もちろん書いても無かった。
・・・・という程、風の強い日だった。
これはまずいと鉢の方は2階のリビングの海の前の窓に置いた。
これだけはと思い、心をこめて水をやっていたら、2月に入ってから花を付けはじめ写真のような花を咲かせた。
館山フェスティバル出演の為の特訓中の禮子ちゃんの宴会場に13日、写真を持って行った。それを見るなり
「マーコさん凄い! こんなに4段なんて、咲かせた人はいないよ」と、よし江さんが叫んだ。
そう言えばこの方忘年会の帰りにも、車の荷台いっぱいの鉢を「もらって無い人ーーー」と配っていた。フラの人全員さくら草を育てた。
「よし江さん ごめんなさい・・・・・咲いたのは これだけ なの・・・」
私は心の中で謝った。
● 初 詣
makomakoH2009.2
今年も新しい年が始まった。 一月に妹の禮子ちゃん達の住む地区“坂田”と書いて(ばんだと読む)はマイクロバスで、関東の主な処へ初詣に行くという。
裏の小母ちゃんが「マーコさんも連れて行ったら・・・・」と言ったと禮子ちゃんが言った。
あーあれが効いているのだなー、と私はピンときた。
ある日いつもの様に出来たおかずを持って禮子ちゃんの家に行ったが生憎留守だった。
留守だからとカギが掛かっている訳ではない。
いつもは玄関のノラ猫用のキャットフードの横に置いてくる。でもその日はお茶してこようと、届いたばかりの軽羹を持っていた。
来合わせた小母ちゃんが「今行ったばかりだ」と言う。
それで私の分を小母ちゃんにあげた。後日、すごく美味しかった、と喜んでいた。
あれでマーコさんと声が掛ると思った。
後になって少々ニュアンスが違っているのに私は気付いた。
チャーターしたバスを運転していくのは、息子さんで小母ちゃんは坂田の世話人、いかにバスを定員に近づけて行くかで頭割が違ってくる。
でも、そのバスには坂田から来るフラの仲間が5人も乗っている。だから小母ちゃんから声が掛なくても、行くことにはなっただろう。
仕事の都合で急に不参加になった禮子ちゃんのダンナが、「マーコさんと喋る時は息をしながら話をしろ」と言ったとか・・・
1月末の予定の初詣が、坂田で不幸があり、鹿児島の行事みたいに一ヶ月遅れの2月末に実行された。
その日の朝は小雨が降っていた。
成田山に着く頃は雪に変わって来た。大きなボタン雪がバスのワィパーに消されていった。
浅草に着く頃は小雪になっていた。浅草寺には悲しい思い出がある。
信心深かった姑は愛知県の豊川稲荷までも連れて行ってくれた。
隅田川を渡れば堀田の家なので、浅草寺には年中来ていた。
ある日・・・20段ほどの階段の下で姑が私に言った
「私の御賽銭もあげて来て」と手渡した。
それを握りしめて歩きながら、老いとはこう言う事なのかと涙を押さえられなかった。
その場所に行くといまでも姑が立っている様な気がする
「今日もお姑様の分もあげてきましたよ!」
その次は川崎大師に行き、横浜に行って泊まり次の日元町・中華街へ買物して食べて帰路へ…
女性の多いバスは禮子ちゃんに言わすと後家さんばかり、連合いのいるのはフラの我々と参加している二組・・・ そのおバチャン達が笑う笑う
「あれじゃ“ガン”も寄り付かないわ」と私が禮子ちゃんに囁くほど、バスも揺るがす程の大笑い、よく薩摩時間とか、遅く集まる話は聞くが「坂田時間」と言うのは反対で30分前には皆が集まると言う。
集合の朝も禮子ちゃんの家に着いた時はバスも誰もいなかった。彼女が外にいる猫にエサをやったりしていたら、小母ちゃんが
「あんた達2人だけだ」と迎えにきた。
一番前が2ッだけ空いていた。だからどの人がどう笑っているか振り返れなかった。
どの集合場所でもそうだった。「東京もんが一人いるので」と禮子ちゃんが皆を笑わせる。そして私に言うー坂田昌子―にしたらと・・・・
● 妹 と 私
makomakoH 2009/2/7
彼女と初めて会ったのは、ある稽古事の会場であった。
前より近所の方から、一度見に来ませんかと誘われていた。
それは私のように(元、別荘・・・今、定住)の人を、増やそうと考えているあるサークルの集まりだった。
私もこの地、東京より百三十キロはある館山に住みつくようになって、外出するのは買い物か、外食、それに、月に1度くらい誰かが東京の方からやってくるのと付き合い、あとは畑仕事をしているのに、そろそろ飽きもきていたので・・・
ある日、車で帰る人に途中で降ろしてもらいながら見学にいった。
そこでは十名余りの方が集まっていた。暫らく見ていたら「見ているだけよりもやって見ませんか?」 となった。
その中の一人が 「着るものは余分があるから」 と、貸してくれた。
他のどう見ても三十代とおぼしき、自分の娘より若い?かと思われる方が 「これを履いてください」と持ってきた。
「そんなのお借りしたら汚れて悪いから・・・・・」とそれだけは断ろうと思ったが、彼女の親切に負けて、使わせてもらった。
洗って返そうと思ったけど、終わったらさっさと私から取り上げて持って行った。
休憩時間になると、自分で漬けた漬物を持って来て出す人、手造りのケーキがでたり、果物と、それは賑やかなお茶の時間となった。
それは、この頃、女性の集団と縁遠かった私にはすごく楽しい時間だった。
自宅でなった柿までみやげが付いた。
帰りは電話して迎えに来てもらうことになっていたが、そこは、山の中で電波が悪く、普通の携帯でもかかりにくいというのに 私のPHSなど繋がるわけもなく、私が慌てていると、一人の方が「どうせ通り道だから、送りましょうか・・・・」と、言ってくれた。
若そうで美しく、みんなの中でも目だっていた彼女だった。
「反対に行く人が送るのか」
と元校長だったという80歳近いらしい会長が呟いた。
彼女の大きなワゴン車に乗り送ってもらった。
私は他人に借りを作っておくのはいやなので早速、畑の物を,採ったりして、彼女の家にお礼に行った。
彼女は「禮子」と言った。
お礼に行ったつもりが帰りには・・・・・
「主人が暇な時は漁船に乗って手伝って来るので、魚をたくさん貰ってくるのよ」と、大きな”いなだ”を一匹頂戴して帰る羽目になってしまった。
禮子ちゃんと話をする度に身近なことをどんどん発見した。
お母様は沖縄の方で、小さい頃は鹿児島にも住み、小中学校は江戸川区の、我が家の最初の家の、隣町の学校を出ていた。
そして、今の江戸川の家の川の並び、3分ぐらいのところに「伯父が住んでいる」と言うのにびっくり、
我が家の庭に見事な花をさかせ、夜間照明までするあの「一本桜」のことまで知っていた。
そして最近、江戸川に初めて住んだ家の話になり、今では倉庫代わりにしている我が家の三軒隣が、父方の叔父の家で、そこの子供、つまり禮子ちゃんの従兄弟は、私の生徒だった。
それを知ったときは驚きで口を噤んでしまった。
鹿児島での高校卒後50周年記念会から帰宅してまもなく・・・・・・
毎日のように昼寝する私が、一週間も普通の人と同じように動きまわり、そのうえ、春から予定していた高校の同期会も無事終え、いささか虚脱状態だったころ
私の誕生日がやってきた。
この年になって、あまり目出度くもないが、まあ、何事もなく年を重ねられることは幸せなことではあると思い、 生きたくても生きられなかった人々を偲び、自分だけで静かに祝おうと、ケーキにはうるさい方なので、館山でも有名なケーキ屋を探し買いに行った。
帰りに禮子ちゃんの家に寄り、お茶飲みに来たと、二人で食べた。
後日、彼女が言った・・・・・
「あれから出張中の主人にメールしたのよ。わたしのバースデーのケーキが届いたって」
私は驚いて「あなたは何日に生まれたの?」と大声をあげて訊いた。
私より一日後・・・・・
やっぱりあたしの方がお姉さんだった?
禮子ちゃんの家は、もと民宿だった所を買い、会社を経営されているご主人の会社の研修センターになっている。
広い宴会場もあり、舞台に出る前になるとそこは皆集まっての練習場に早変わりする。
会社の研修とか、お得意様の接待になると、大変になる。掃除洗濯は自宅までも裏から小母さんが手伝いに来るが、本格的な料理までは??
そこでご主人から声がかかる 「マーコにきてもらえ!」と。
ちなみに“マーコ”さんとは私のこと、政子と書く市議会議長の夫人がいるので、私のことは“マーコ”さん。
禮子ちゃんは“元美容師”という経歴、だから舞台出演となると皆の髪、化粧、つけまつげまでしてくれる。
白状すると、私より一回り以上若い彼女が料理の事で、オロオロするのでついつい私の出番になる。
そして、あとで、専門家にきてもらったのだからと、法外なお礼が来る。
初めは固辞したけど会社の経費だからと言われると、それなら貰っても・・・・なんて変な理論で戴いてしまう。
こんなところで、昔、ある時期にライセンスマニアだった、私のとった調理師免許が役に立つなんて思いもしなかった。
人間のすることに無駄はないというのは本当です・・・・ネ。
私には女の姉妹のうち、姉が3人いるが末娘の私には妹はいなかった。
子供の頃から妹が欲しかった。妹がいたら、といつもそう思っていた。
果たせぬ夢とあきらめていたのに、もう最終コーナーを回った今になって妹が現れ、私は神に感謝している。
今まで理由わけあって離れていたのが、急に再会して近くに住んでいるようである。
その妹の禮子ちゃんから電話がかかり長くなると 「そのうち来るぞ!」と、我が家の“同居人”が動きだす。
いつもは東京湾に出入りする船を見ている望遠鏡を道路の方に向ける。
クルマもあまり通らない田舎道を、赤いジープに乗った妹が携帯を片手に、5分もかからない道を、しゃべりながらやって来る。
「はじめから来て話したらどうなの?」と私。
「電話で済まそうと思ったのよ!!」と、あっけらかんとした性格の妹は答える。
妹夫妻の趣味?道楽?ロマン?はクラシックカーレースに出場。
上の文字をクリックしてください。 DVD画像挿入。
昨年10月上旬、開催され、マッチーをはじめ、芸能人も数人参加していた。
そのことがテレビで放映されるというので私は友人達にFAXをした。
「妹さんがいるから館山にいらしたのね」
事情を知らない若い友人は言う。
「お二人ともお父様の方に似たのね」 とメールが来たり、
背の高さも10センチも違うし、顔も似ても似つかわない顔なのに、二男と、親友の母親が言う 「主人も、息子も、そっくり 似ていると言った」
自分のことは自分が良く知っているから笑うしかない、と必死で弁解。
皆どこまで本気なの。
身長の差、10センチは良いこともある。スカートを作る時、残り布を交換して作ったり。
ところで、作ると言えば、グループの人は、本当に親切で、ミシンをまだこちらに持って来ていないと言えば、妹は貸してくれ、もう一人の友人は
「わたしは二台もっているから、ちょっと古いけれど」とそれでも立派なシンガーミシンをくれた。
私より若いのに「目が見えずらくって」と言う方たちのスカートを二台のミシンを駆使して縫ってあげる。
他人にはこう親切にしないとならない、と反省させられる位、みなさん、やさしくて、親切な方ばかりで、私も少しは、何かして返さないといけないと思っている。
さて、グループ・サークルと言うのは、もうおわかりだと思うけど、屋久島でお見せした“フラ”でした。
美子先生が不参加になったとき、わが娘たちにも話していない“フラ”のことを・・・はるばる屋久島まで出かける同期生の為にやってみようと思った。
プロはどこでもは踊らないし、その上、美子先生が歌に合わせての手踊りもないのなら、何かをやって楽しませてあげようと、
そのうち、だんだん
「私がやるしかない」と思うようになったのである。
事実、城山のホテルでの総会でも
「あのとき、同期生も踊ったら盛り上がっただろうね」と言う人達もいた。
“旅の恥は掻き捨て”楽しかった、と言ってくれたことで吉として、フラなんかしていなかったら人前で踊ることもなかっただろうが。
妹にも出会わなかった。だから、フラに感謝もし、ありがたく思っています。
4月からは、私の半年前に入った妹と、私は、会計係を仰せつかる。
私が、しっかりしなくては・・・・・
何しろ、私は夢にまで見たお姉さんなのよ。
2009(平成21年)2月7日 着 原稿転載しました。
ここをクリックすると、八期同期会総会からマーコさんのおかげで盛り上がった屋久島でのフラシーンの動画を見ることが出来ます。
愛車『ブレシア』で参戦
きょうスタートのクラシックカーレース
館山の鈴木さん夫妻 85年前の名車 英国で落札
古き良きレーシングカーに魅いられた館山市に住む鈴木直幸さんと妻の禮子さんが今日11日から4日間にわたるクラシックレース『ラフェスタ・ミッレ・ミリア08』に出場。
● 菜 花
makomakoH
2月・3月は、菜花との戦いだった。
2月のある日の“フラ”に行ったら・・・・・・
「皆持って帰ってね」と、仲間が手渡した。
「ありがとう」と喜んで貰って中に入って見たら、それはこの辺で“菜花“と言う菜の花を野菜化した━葉っぱだった。
「あゝまずい・・・・」とその袋を開けて見た瞬間に思った。
菊の花ビラは食べられる。食用として作ってあると言われても食べない。
生きている物は食べない。私の為に殺したくない。旅に行っても刺身の生き造り、アワビの踊り焼き等はメニューを替えてもらう・・・・・・
それに伴いお菓子類も魚・動物の形の物は口にしない。
昨年末の関東の忘年会でエビがガラスの鉢の中で強い酒をかけられ、飛び跳ねた一瞬を見てしまったが生き地獄だった。
人形焼きの人の顔で私を睨みつけられると、身震いがする。
私の前に現れないで下さい。
そんな私が“菜花“をもらった。どうしよう?
次の日東京から客があった。だからこれ幸いと土産に持たせた。次の週フラに行ったら「嫌いじゃなかったら持って行って,実家で貰って来た」との事でまた“菜花“が来た。
思案した結果、知り合いの役者に送った「菜食主義になった」と言っていた。
3月8日の館山フェスティバルの一番大きな行事の特訓の為、中間でも集まり、禮子ちゃんの宴会場に、「もらい過ぎて食べきれないから貰って」と、また“菜花“が来た。
それは運よく江戸川に持って行き、毎月食べ歩きをする友人達に、土産としてあげた。
「大好き・・・・これ結構高いのよ!」と喜んだ。
2月、3月と二回持参して,彼女達を喜ばせた。
これで終りかと思っているとまた来る。何とか一日で着くところを見つけ送った。
この頃はどこも二人で静かにスッキリ暮らしている。若い教免仲間達の4~5人家族が精一杯の大家族、余分なものが届いてもかえって迷惑かもしれない。
助かったのは、2月、3月の花の時期・・・・
生徒や江戸川、今年は仙台の友人まで来てくれた。その人達に土産に出来た事
最後の最後になって、遠くまでも送ってしまった。
・・・・・・・あゝそれも終りだと思う!・・・・・・・・・
● 絆
2009・4・makomakoH
館山のこの地に家を建てることになった15年前、将来、生徒達も大きくなり訪ねて来てくれるだろう、泊まる処があれば房総にも気楽に来れる、その時のことも設計士は考えた。
設計士とは誰あろうー私ーある時期、設計士になりたかった私が夢を見ながら線を引く、その為に家を建てるのじゃないかと思う。
花の時期になると客は俄然増える。
以前、定住していない時は、打ち合わせて両者集まった。今は気楽に来てくれる。
東京から130キロ、若い人が車を走らせるには良い距離、私も最近までノンストップで一気に車を走らせた。
この頃はバスの便がよく、大型デラックス+運転手付きで、ひと眠り・・・か、
メールをする。
突然チャイムが鳴り、宅配便かと出て見ると、懐かしい顔が立っている。彼と彼女もそうだった。
いくら私がサプライズ好きだからと驚かさないで、一番困るのは顔、肌に悪いからという理由を付けて何もつけていない。何しろ田舎、化粧品屋も遠い?なるべく使わない様にしている。
街のスーパーに行くのも人に会わないように遠くの方へ20分(もちろんクルマ)時もマスクをして行く。
この時期、風邪と思う人は少ない。俄・花粉症のような顔をして、誰にも会わない様にと祈っているのに、やっぱり会ったのは禮子ちゃん!
「マスクしている時は話しかけないで・・・・・」と言うと、「私なんかいつもスッピンよ」と、ジョギング姿、近くの海岸を走ってきたと彼女は言った。
本題・本題 突然やって来たのが、定住初めの2年前のある春の日、男女で来るのも珍しいと思ったら、 同期生同志二月に結婚したと言う。その夜は大いに盛り上がった。
彼らの歌うカラオケには少々ついて行けなかったが、生徒が来てくれるのも嬉しいのに二人でしかもめでたく結ばれーー「披露宴には連絡しますので出席して下さい」と、帰って行った。
それから招待状が届く日を楽しみに待っていたが、何の音沙汰もなく秋が過ぎた。
新年で訪れた生徒達が言うには、別居して離婚するのじゃないかと言う。
何で!あんなに仲良くしてたのに」信じられなかった。
何とか出来ないかと悩んだ。オセッカイちゃんの出番じゃないかと思った。
そこで一緒には来ないだろうと思って、別々に呼んだ。こんな時は何を言っても駄目だと思い、我が家の前の太平洋の砂浜に座り、彼と飲んだ。
世界に続いている海・水平線をいつまでも眺めながら、人間の小さな事が許せないのかと彼には言った。
彼女とは海を見たあと、花を見に行った。2月の館山は花が咲き乱れている。
世間は冬でも館山はもう春 この為に館山に住んでいる気までする。
もう少し優しい気持ちにはなれないかと言って見送った。
その他 2人にもう一言ずつ同じ言葉をかけた。
その後どうしたかと気にしていたが、やるだけの事はやったと静観していた。
冬に入りかけたある日、二人で訪れた。
私と会ったその後、秋に同期会が開催される事になり、もともと幹事同志で付き合った二人、たびたび会って準備している内に自然に戻った。
二人が言うには先生の言葉が身に沁みた。
「役所の方は簡単だけど・・・・同期生だったと言う事実はどうするの?一生抜けないのよ」
同期会の準備をして肌身に感じたとの事。
だから同期生の皆様一生仲良く付合って、行きましょう。
特に同期生同志ご夫妻の方々・・・・・・・・夫婦より強いー絆ーがある事を忘れないで下さい。
三行半を出せば役所は受理するでしょう。でも学籍簿を消す事は出来ません。
これからも同期生仲良くやって行きましょう。 見たいテレビぐらい見せてあげて下さい。
―塞翁が馬―
makomakoH 2009/2/7
漢文でこの言葉を習ったその日から・・・こういう精神で、これから生き様と心に誓った。辛い事・大きな出来事が起こると、これを乗り越えて前進する事が生きると言う事だ。今はこうして試されているけれど・・・塞翁が馬・塞翁が馬
次には良い方向になる。この言葉を心にくり返しながら大都会の中で生きて来た人と仲たがいをしても、今はこの人と会うなと言う事だ、私を助けて守っている
そう思い直したりしながら、立ち向かってくる色々な困難にうち勝ってきた。
先日テレビのニュースで GMを解雇されたと言うアメリカ人男性(34才)が女の子を抱いて話していた。「娘と一緒にいる時間を貰えたのだと思っている
今まで通り働いていたら、娘の最初の言葉も・最初の一歩も見れなかった」と話す姿に・・・何と素晴らしい心の大きな人なのだろうと感動・感激した。
これこそ一塞翁が馬一の精神 神様!この方に次は以前よりもっと良い仕事を与えて下さい。と・・・祈らずにはおられなかった。
ある夜・同期生の友人から「とんだ災難なの、手を骨折してギブスで巻かれて吊っている」とメールが来た。まず思った事は、右手でなくて良かった。という事・・・利き手で無ければまだ何とかなる。返信すると、メールは打てると 返事は来る。「手が貴女のもつとの災難を救ったかもしれないから・・・」と私その災難は、私に降りかかって来た?今月のなかばに東京まで行って、私達の先生の舞台応援の為出演するので、その沿線の彼女が来てくれる事になっていた「片手で人混みに押されでもすると危ないから、出歩か無い方が良い」と家族に反対されたと言う。最もな話にどうしょう?と思った。自分のと頼まれた
仲間のノルマ分のチケットは、江戸川・その他の友人が行ってくれる事になっていた。 あまり考える間もなく一人心当たりがあった、やはりその近くに住む方写真を送ると、近所に豆製品の専門店があるらしく、お礼の手紙と一緒に送ってくれる同期生がいる。初めからその人も考えた。日曜日に悪いかな一と思いチケットも行く先も決まり遠慮した。「あの人に聞いてくれない・・」とメールして見た。自分でするべきだったかと悩んでいたら、すぐに着信音が鳴った。
彼女も同じ考えなのだと思った・・・オ一ケ一と言ってくれたと言う返信だった。
有り難きは友人、何で初めから声が掛からないの?と私なら思うだろう・・・
生バンドで・上手な先生達が何人も踊るから といつも豆製品を送ってくれる、
やさしい彼女に生の豆・グリンピースを、少々入れてお礼の手紙を早速出した。
飛行機は嫌・インフルエンザでは死にたくない、とどのつまり死にたくないのだ。
そんな私ですが、これからも一塞翁が馬一の精神で生きて行こうと思っている。
―道 標―
堀田昌子 2009・7・1
これは 我が町―伊戸―いと と 読むか いど と 読むべきかこれでも些か迷う ? 館山の端から町中をこの様な標識が並んでいる隣町のバス停に―坂足―と書いてある―さかたる―と読むそう言えば 伊豆の方に―七滝―と書いて―ななたる―と読ませられる 地名もある 人名・地名は読み難い何とでも読ませる
館山の駅から我が家までの中間位に―香―と言うのがある
平成5年から一か月 1~2度来る時から―かおり―と読んでいた
ステキな地名だなーといつもそう思っていた それがまたどう言う訳か 通る度に目に入る坂を下ったとこにある道標もうじき我が家になる
2年前 館山の方が根拠地になり・・・良く通る様になってから下にある
ローマ字の数が―KAORI―では長すぎるのではないかと気になった
それで そこを通る時 なるべくゆっくり車を走らせて 2・3ど読んでみた 何だか理解も出来ない 文字が並んでいる 何なのこれ!何でそうなの!
香=かおり・・・㌧でもないその下には―KOUYATU―と書いてある香が どうして―こうやつ―と読めるの? 不思議でならなかった
ある日 フラの仲間のご主人が市議会議員の方に「市役所の何処で教えてくれるか聞いてきて・・・」と話していると・・・産まれも・育ちも館山の地元の仲間達が その話を聞きつけて数名で教えてくれたYATUと言うのは 谷の事だと言う「―やつ―に行って来る」と
言えば谷の方に行くと言う事なのだそうな・・・・・成る程そこは下ったとこにある昔は鬱蒼たる谷底だったらしい?今では立派な通リ道 しかし この一字―香―をこうやつとまで読ませないで・・・・
余りにも読めないからか 近くのバス停は―香谷―になっている
そうでしょう・・そうでしょう・・私で無くとも KOUYATUとは読めない
それも谷を―YATU―と読める館山の地元の人しか読めない話
・・・・ずーっとそう思っていた ある日 試しに電子辞書を引いてみた何と 載っているではありませんか 以下に転記して置きます
やつ ― 谷 ―
(関東地方でいう 特に鎌倉辺地名として多く現存 アイヌ語からか)
低湿地 やち やと (地名としては 「や」ともいう) 十六夜日記
「あづまやにて住む所は 月影のやつとぞいふなる」 「扇ケやつ」
暑中お見舞い申し上げます
皆様・・・お変わりなくお暮らしのことと 存じます
テレビの天気予報 見ながら・・・長い日本列島の 空模様を気にしています
各県の友人の顔と共に 思い出も合わせて
鹿児島は晴れ・・・彼女お母様を自転車で看に行けるわ
福岡の畑は? ヤーコンは育っているかしら 大根の出来は?
山口のあの思い出の石橋・・・今日は雨に濡れているんだわ
さくら咲く 待たれた春4月 橋とさくらをいつか必ず見に行こう
大阪のあの友 小学校の時 毎日電車の線路のまん中まで見送らないと帰してくれなかった人 もう立ち直ったかしら!
静岡のKーちゃん 貴女ばかりスマートは嫌少し貰って行ってよ神奈川のあの人・・・手の調子はどうかしら リハビリはーー?
我が東京・千葉 ビルの谷間の人・人の中を 歩いている人もいないかも知れない 月日は光陰矢の如く過ぎ第一線から退いた
夏は暑い クーラーが無いと生きて行けないと言う人もいる
でも子供の時 クーラーが 有っただろうか・・・私は使わない
子供達にも 暑さ・寒さに耐えさせた だからうちの子達は
誰もクーラーに入ろうなんて 思う者はいない 皆・・・丈夫
私も風邪は何十年も引かない 引かずに押し通す
クーラー何かに入らず 自然に過ごしていると そよ・・・と
吹く風にも 幸せを感じる 自然・自然ーーー自然が一番
皆様 どうぞお体にお気をつけて お暮らし下さい
信じられない様な 大台に次々乗って行く・・・御身大切に・・・
平成21年 盛夏