鹿日中法人交易部
義烏視察旅行・番外編
平成19年(2007)3月10日~14日
ここで書くのは視察旅行の番外編である。ツアーを催行するの本当にはむずかしいものだ。
プランをたてて日程をきめる。ツアーの内容は旅行社にまかせる。あとは人を集めるだけ、といとも簡単に思っていた。でもわずか20名足らずの人を集めるということがこんなに厄介なことだとは知らなかった。とにかく状況が刻々と変わるからである。
とてもじゃないけどぼくは旅行会社のツアー担当にはなれない。目的地へ飛び立ってからあとの引率に関しては問題ないのだけど。・・・というわけで、これからさしさわりのない範囲内で、その辺の心の苦悶を書いてみたい。
当事者は見ないことを念じながら・・・・。
2007・3・17~4・14
●最後の夜は皆それぞれ。 13日上海それぞれの夜
ツアー最後の(空港への)バスの中からこの物語は始まる。
浦東空港ゆきのバスの中で皆さんに写真の説明をしながらだんだん、声が出なくなった。
その予兆はその日の朝からあった。エアコンを冷風のまま一晩つけっ放ししたせいだと思ったが。
「声が変ですね」と言う人には「いやぁ,昨夜カラオケで唄いすぎたよ。」とかるく答えていたけど、実際に唄い続けていたのは椨さんと、坂上さんである。
じつは鹿児島に帰った次の日から咳が止まらなくなったのである。
バスの中での無声症状は中国型悪性ウイルス感染のきざしだったのだろうか?
ぼくは4年前の「サーズ騒動」を思い出していた。あの後から国際空港の出入国ゲートでは赤外線ランプが設置され、パッセンジャーの熱感知が行われるようになった。
ほぼ完治するまでぼくの悪性気管支炎(医者は風邪とは言わなかった)は3週間はかかった。
もっとも同じ症状はぼくの周りでたくさんいたので中国から貰ってきたのではないのだろう。
話しをカラオケにもどす。李黎とカラオケに来るのは3年ぶりだった。長沙に行く前の日、大雨で雨宿りに寄ったのが最後である。
南京東路のはずれを右に人民広場を見ながら、2年前に出来た巨大なファッションビルを過ぎると2分ほどのところにカラオケボックス『HAOLEDI』はある。
ここでひとこと注意しておきたい、中国では、あったばかりの人や親しくない知人などに間違っても「どこかよいカラオケ店を知りませんか?」などと、声を落として聞いてはいけませんよ。中国カラオケと按摩サウナはそれぞれ二種類あることを知っておくべきです。
現地ガイドの華さんは夕食の時、「カラオケ?行きますか?ワタシ、最高のカラオケバー知ってるね」と、にゃっと笑う。男が訳もなくこのての笑いをするときはだいたい何のことか察しがつく。
「こんど独りで来た時にね。」と言うと、華さんは親指をぐぃっと突き出しその次には小指を伸ばし耳にもっていった。つまり「任しとけ、電話しろよ。」ということだ。
ところで椨さんはかなりのカラオケ通である。ポケットから何やらメモ紙を取り出した、覗くとそこにはにびっしり(40曲ぐらい)曲名が書いてある。自我愛曲表である。こんな旅に来てまでポケットに入れてることにおどろいた。曲名を言ってリリーが探す。
残念!李黎が懸命に捜すけどお目当ての曲は殆んどない。この前来た店と違うのだろうか。
「チャンピオン」はあって「昴」がない。「港町十三番地」があって中国では有名な「北国の春」がない。どうもここはおかしい。「くちなしの花」のタイトルは「くちないの花」になっている。
仕方がないので知ってる唄をアイウエオ順に次々と予約して3人で唄った。かわいそうに李黎の出番はない。30曲ぐらい歌って時計を見たらもう11時をすぎていた。
カラオケのあとは「足按摩・良子」に行く予定だったがやめた。
遅くなった原因は途中で菊池さんが欲しがっていた??甘納豆を「上海第一食品商店」で捜し、次に李黎の誕生日(3月10日)祝いに化粧品をプレゼントするためデパートに寄り、次に、のど飴が欲しいという椨さんを『上海市第一医薬商店」に案内し、坂上さんの希望で庶民がよく行く「上海第一百貨商店西楼」の婦人服売場を覗いたりと、つまり南京東路をあちこち歩き回ったのが遅くなった原因だった。
もっとも上海の街をぶらぶらすることが目的だったのでふたりにとっては思い出になったことだろう。
さて、時計を4時間ほど巻き戻してみる。つまり・・・・
今日13日の3時ごろ、烏鎮を発ったぼくらはほぼ予定通り午後4時には上海の元博大酒店に着いた。
椨氏の厳選烏鎮100景より。
ここでまず2つのグループに分かれた。大きく分けるとと「ビジネスグループ」と「観光グループ」である。ビジネス組は宮下氏を頭に彼の紹介する中国人実業家と日中貿易の仕組みなどを勉強するということでホテル前で待合せすることになっている。
観光グループの方は予定ではこのまますぐ「豫園商城」に向かうつもりだった。ところが今、都心部はラッシュで行っても豫園の見学時間が30分ぐらしかないとガイドの華さんは言う。
実はそのあと、上海最大?の中華レストラン「紅子鶏美食」(店員がローラースケートで店内を走るので有名)で最後の晩餐をする予定になっている。
食後はさらに2組に分かれ、赤塚組7名は上海雑技で有名な『上海馬戯城』(6台のオートバイが球状の網中を走るので有名。)を見学。https://www.getmile.com/cdn2001/base/zatsugi.htm
上のサイトから動画を観ることが出来ます。
更にその後は『良子足浴按摩』で足つぼマッサージを体験するという赤塚84歳団長率いる7名の『上海魅惑の夜満喫コース』のフルタイムが待っている。
そしてぼくら3人は『紅子鶏』でタクシーをひろい上記の行動となったのである。
それでも今回のツアーはビジネスツアーである。
着いた晩から3日間、毎晩続けて誰かの部屋で「紹興酒パーティ」が深夜の1時,2時までつづく。
話の内容は日中経済の話が中心であることは間違いない。が,ときどき話が脱線する。ツアーにつきもののだれかの失敗談か、さもなくば「・・さんがいないいない事件」である。
なぞの失踪者は日替わりメニューである。
なにしろここは中国、皆が携帯を持っている日本とは違う。いったん失踪したら消えたであろう場所まで誰かが探しに行かなければならない。・・・・入口で待ち会おう。とタクシーに分かれて乗っても入口が幾つもあるのが中国の建物。 当人の名誉のために名前は出さないことにする。
がそれはそれで当夜のとっておきの酒の肴になったことは間違いない。
買ってきた紹興酒と白酒が切れる頃はいつも2時が近かった。おかげで3日とも風呂は入らずじまい、朝6時に起きてシャワーを浴びるだけのハード?な旅になった。
今回の視察旅行は徹底的にビジネスにこだわろうという意図でプランがたてられた。
しかし、くるくる変わる参加者の内容が最終的にはとてもバラエティな商業視察にしてしまった。
でも、終ってみればそれぞれに充実した4日間だったのではないだろうか。
当初の計画では・・・・
それぞれが気に入った商品についてはトランクに詰めて帰り、もっと大量なら共同コンテナも可能と代表のひとり宮下氏は言った。
さらに・・・・
着いた翌日は朝早くからバスで義烏に行き現地で専門の義烏バイヤーにレクチャーを受け,翌13日は終日、組に別れて仕入れ交渉をする。その次の日も昼まで前の日の続きをし、午後途中の『烏鎮』を観光し夜に上海に帰り、翌朝帰国というのが最初のプランだったのある。
つまるところ、2日目は朝早く上海を出て、その日も義烏。3日目も終日義烏。4日目も午後まで義烏というのが一番初めの行程だった。
今回から交易部を含め、鹿児島市日中友好協会の専属旅行社はJTBタカプラにお願いすることになった。
ホテルから現地の旅行社を含めすべてJTBにまかせた。我々の趣旨を汲んだJTBタカプラ店の企画書は日程、料金ともに申し分のない内容だった。
早速30名ほどの交易部会員にJTBを経由して文書で案内を出した。
参加予想者の中からお彼岸で忙しい松間さん、確定申告時期と重なった田代税理士、加えて交易部では女性ひとりの有馬さんが予定の日にはどうしても行けないと不参加を表明した。
一緒に行くのを楽しみにしていた3人の欠席はショックだった。
それで世話役の残りが赤塚、宮下、小屋 ,大石の4人になった。でも今回多忙のため行けない海江田会長が、「私が行かない代わりに会社から3名は行かせます。」と、赤塚氏もどなたか学校関係者を連れて行こうかな。と言われた。(ここで8人)
若手の小林くんの友人の交易部会員久保さん、住吉さんは今回、間違いない参加者と予定していた。(というと今10人~11人)
小林くんも「一緒に行ってもいいかな・・?」と決断を延ばしている。
ぼくの方も親戚の椨さんが行きたい旨の表示をしていたので 世話グループで11名はかたいだろうと予想した。
他に交易部に出した案内が20名はある。半数が参加したとしても、大まかなところで20名は越すだろう。というよりこの時点でこれ以上参加したらツアーのまとまりが悪くなるのではと言う心配すらあった。
早速、ぼくがJTBに別に出していた補助名簿の中から谷川氏が「参加します。」とFAXが届いた。
参加、不参加のメールやFAXは赤塚氏のもとに届くことにしていたのだが。
催行日まではまだ2ヶ月はあった。
ここでひとつ気がかりなことがぼくにはあった。それは商店街の事務局長をしていた菊池さんにお誘いのメールを打ったことだった。
菊池さんは、昨年秋11月出発の義烏ツアー企画を立てた時に参加したい旨の希望があり、実際、昨年旅行検討会を「ジェイドガーデン」でした時友人と二人で参加した方である。
その時は年末を控えた催行のため集まりが悪くおまけにツアー代行の旅行社の鹿児島撤退もあり今回に延期したのだが。
あれから随分日が経っているのでどうかな?と思ったけど打診してみた。もし万一人数が少ない時は確実なメンバーになるけど今回の企画は以前に増して商売人以外には魅力に乏しい内容である。
・・・・ところが、菊池さんから「参加したいと思います。今のところ四名です」とメールで返事がきたのである。
参加予想リストを作って見ると、これで15名になった。
交易部会員に発送した案内の申込期限が迫ってきた。しめきりは2月10日(土)である。
そして、 13日(火)に旅行説明会を兼ねて交易部の『新年会』を計画していた。
2月はじめ、交易部会員にぼくが勧誘した大隣氏から2名参加したい。との電話が入った。
続けて交易部ではないが谷氏と同じく補助名簿に加えてJTBから発送してもらったぼくの友人(ナカマチ商店街関係)の曾川氏が「行ってみたい」と言うので「それでは2月13日の交易部新年会&旅行説明会にいらっしゃい。」ということになった。これで3名増えて18名となった。
もうひとり、女性の有馬さんがひとりで寂しいと思いぼくが声をかけた女性がいた。会員でぼくの高校からの仲間の平澤さんである。参加の意志表示があった。でも、有馬さんが行かないというのでこんどは彼女が一人になってしまった。19名に。
女性の世話もたいへんである。連れを見つけるため同級生の中から行きそうな人に2,、3人声をかけてみた。良い返事は返ってこなかった。
「旅行説明会にきてみませんか?」と誘うと「そうねぇ、話だけでも聞いてみようかしら。」
当夜の『新年会』の参加者のチェックも大変だった。
とりあえずツアー参加を表明している15名に連絡すると海江田氏にお願いした中からお一人だけ旅行説明会には参加しますけど新年会は出ません。と返事があった。新年会には旅行に行かない田代氏、有馬さん、思案中の小林慎介君、竹下事務局長など30名ほどが参加予定である。
締切り前後の1週間ほど、ぼくは新年会のメンバーチェックに忙しくなっていた。
というのは、この時期、中国から正月休みで帰国中の日本語教師たちとの懇話会を予定していた。
今回は交易部新年会にジョイントして一つテーブルを囲めば賑やかになるかも・・・・と思い赤塚氏に相談すると「いいんじゃないでしょうか」との快諾を得ていた。
今年は合肥市の加治佐さんは帰国せず、アモイ市の上山さんは中国からの帰国が新年会の当日(成田着)で間に合わず。
以下の7名に日本語教師体験者の竹下事務局長を加え8名で1卓を囲む案である。
池田さん(九江市)に野村さん(長沙帰り)東さん(長沙行)銀さん(長沙からの留学生)塩田さん(協会の新理事で4月に杭州の大学に赴任予定)静岡県伊東市から来年秋に長沙学院に教師希望の市岡ご夫妻である。
各テーブルには留学生の女性を一人づつホスト役として招待した。
美華園に30名(4卓)でお願いしたのでそのテーブル割にしばらく時間をとられた。
こちらの参加案内は赤塚交易部会長から出してもらった。
日時が過ぎていった。楽しみにしていた交易部一般会員からの義烏ツアー参加申込が「芳しくないです」と、赤塚氏から連絡が入る。
新年会の方も一般会員からの欠席通知が多いと言う。
交易部の一般会員は30社ほどある。確かに年会費1万円を納めてくれるし、総会などには参加してくれるけど、それだけと言う会員が多い。こちらが呼びかけるイベントや講演会にはほとんど参加されない。
何か魅力が無いのか、会員の皆さんが忙しいのか、楽しくない会なのだろうか。『顔を出してみようか』と言う気にもならない会員なら会費を戴くのが悪い気になる。
JTBから出してもらったツアー案内を見た会員からの参加者は一人もないのでは?
一瞬、そんな予感が頭の中をよぎる。
赤塚氏と電話で話し合う。サンフーヅの川原さんや坂上さんに電話して見ましょう。赤塚氏も頭を抱えているようだ。海江田会長も「もう一人確認してみますから」と言われるところを見ると仲宗根さんお一人のようである。
確実メンバーをチェックしてみた。
akatuka, miyasita, ooisi, koya, nakasone, kikuti ,ueno,i muta, kuroki, ootonari 1, ootonari2,
tanigawa, soyama ,kubo, sumiyosi,tabu hirasawa? 以上17名参加。
外観は目立つけど中はボロボロのバス。
ガイドの華さんは頑張ってくれた。感謝!
2月13日『交易部新年会&義烏ツアー説明会』前日までに決まった数である。
問題はツアー説明会の時から始まった。
旅行説明会で、うしろのイスに座っている谷川氏に振り向いて声をかけたら「そいが、大石さん、あたしは行けんごなった。と、結婚式がその日に入ってしもたわ」
この一声で16名以上の割引ぎりぎりになった。久保氏も今日来ていない。平澤さんも相手がいないと行かない確立は高い。
結局14名ぐらいになるのか。
そして、しばらく経ったある日、JTBの杉内さんから電話が入った。
「大隣さんのお連れの方から電話が入り2人とも今回は参加しません。とのことです。」と言う。
そして、あと10日ごろになった28日、曽山さんから「大石さん、悪いけど、やはり広州のほうに行かなければならなくなった。近づいてから申し訳ないけど・・・・」「仕事中心だから気にしなくていいよ。」と答える。
何かが崩れていくような気持ちを抑えながら半分は開き直りの心境である。
こんな気持ちは皆、知る由もないだろう。なにしろ今、13名である。12名を割ると補助金の対象外になる。こうなると菊池グループは貴重な存在である。いちばん気も遣わなくて良いグループだし。菊池さんのニコニコ顔が目に浮かぶ。
現地からの参加者が2人あった。
本当はもうひとり船間(電通)氏がいるのだがぼくが中国で電話連絡をしなかった。
帰ってからぼくの携帯に3通も「連絡ください。」の伝言が入っていた。悪いことをしたと思う。
そういうわけで上海から同行する参加者は2人になった。
一人は交易部会員で中国寧波市に小物雑貨の製造貿易をしている竹内勝美氏と湖南省長沙市で日本語学校を経営している中国人の範例(Fan Li)氏である。
二人ともわたしの友人である。竹内氏は寧波から一人の社員(義烏案内の)を連れての協力参加である。もう一人の範例さんはぼくが長沙でボランティア教師をさせてもらった恩人院長である。
ぼくが中国通にさらに突っ込むようになったのは彼との交流のお陰である。
竹内氏はというと3年前、範氏の長沙市に行く2日前に送別会の2次会で行った天文館のスナック『夢ふたり』でたまたま知合った男である。かれはそのとき羨ましいぐらいの美人を同伴していた。
中国の話からあさってぼくが中国に行くというと、「自分も行くと言う。」半分、うそだとおもっていたら 空港でほんとうに出会った。
浦東空港の出口まで一緒だった。まだ、交易部など存在しないころの話である。
さて、範例氏のことだが、今回、わざわざ上海に迎えてまで同行を申し出たのには訳があった。
彼はまたあたらしい事業を考えているらしい。
それは、ぼくの本職に関連しているのである。最初は「3年も会わないので愛に来たい」とまるでおかまみたいなメールが来たので驚いた。
けど、やはりしたたかなのは中国人。そんなぐらいでわざわざ自腹切って会いには来まい。
「提案があります。企画書レポートもって来ました。大石先生と3日間ゆっくりと相談したい」
やっぱり、それで参上つかまったのであろうな。
おいおい、ぼくは今回のツアーは引率者の役目だぞ!昼は、現地ガイドとそのつど交渉しながら皆に連絡してまわり、また時にはぼくを頼ろうとしているかたがたへの配慮も忘れてはない立場。
夜は夜でミーティングもあろう、となると、残るのは移動のバスの中!!??昼寝できないじゃない!(実は悪い予感通りの結果だった。)疲れが重なり、おかげで強い語調になり恩人・範氏に悪いことをしたと思っている。
5月には鹿児島を訪れると言う。春爛漫の5月、せいぜい範さんを歓迎することにしょう。
底まで2mも無い沼か池で鯉や鮒釣りに興じる彼に、海底200mの底から釣り上げる海の魚は彼に忘れがたい思い出をプレゼント出来るに違いない。
3月に入り義烏ツアーまであと10日に迫ってきた。
大隣さんのお連れの女性が行かなくなったことで女性参加者が平澤さんひとりになり頭を痛めていた。ふと、本村さんの顔が浮かんだ。
旅行関係の仕事をしている彼女も、「私も義烏は一度行ってみたい。」と言っておられたので早速、電話をしてみた。
『行きたいけどちょうどその頃、東京出張が入っています』との返事だった。
もう一つ、直前にハプニングが入った。これはあまり公表したくないとても頭の痛い事件である。
ぼくとの旅を楽しみにしていた会員の方が直前になって名前がすりかえられていたのである。
その名前をJTBからの最終名簿で見たときは正直言って目がテンになったのだ。
姓は同じで名前は彼のお兄さん夫婦の名前だったのである。
「いったいこれはどうしたことか?どうなってるのか?」
いろいろ事情がおありらしく『兄が行くならワタシは遠慮します』、と彼は言う。
もとより、ぼくもそのことは本意ではないのでJTBの担当者と交渉した。
結局、今回のツアーは交易部会員もしくは交易部幹事が認めた方ということでご遠慮してもらうことで決着がついた。このハプニングは義烏旅行プロローグ編最大、四尺玉打上げ花火クラスのフィナーレとなった。
椨さんの西湖風景集。
椨さんの杭州・霊陰寺
赤塚氏の義烏特選集。
仲宗根さん義烏商店画像
仲宗根特選スナップ集
それは出発の2日前の朝のことだった。
平澤さん女性独り参加の問題も解決した。本村さんが気を遣ってくださって「わたしの母が参加しても良いです。」「年齢は高いけど独りで海外旅行をするぐらい元気者です。」と言われる。
平澤さんもとても喜んでた。男性の中に女性ひとりは可哀想だと思っていたのでホッとした。
あと4日を残す頃、ぼくはひとつの計画変更をかんがえていた。それは幹事の宮下、小屋、赤塚氏を除くと半数近くの参加者が視察中心で実ビジネスは考えていない構成になったことである。
当初の旅程は3日間で、義烏までは4時間半ほどかかり、途中中国旅行社のプランによると、トイレ休憩を兼ねたみやげ店を2~3店寄り、夕方3時半から4時ごろ義烏に着くことになっていた。
宮下引率代表に電話で問合せると、「その日は義烏商城めぐりは出来ないでしょう。ホテルで翌日の、それぞれどういうコースを廻るか、皆の希望を聞いて、ミーティングをしましよう。」という返事だった。
ミーティングには2人の現地案内人(アジアビジネスの古森さんに紹介していただいた案内プロの 盧靖さん、お父さんの盧良瞿氏)を中心にいろいろな現地取引のコツを聞くというものである。
200703121800000
左端が盧良瞿氏)右から二人目が盧靖さん。真ん中が宮下事務局長。
ぼくは言った。「どっちみち夜のミーティングだけだったら、どうだろう、せっかく杭州の横をバスで通過するのだから、杭州の西湖や霊隠寺によって2時間ほど観光をしませんか?」
ぼくの頭には菊池グループに女性二人、カメラ好きな椨さんや赤塚氏の嬉しそうな顔が浮かんでいた。杭州は皆さん、何度も来てるかもしれないけど未だ一度も訪れていない人にとって杭州は一度は訪ねてみる価値のある観光地である。
きっと、この選択で何人かの人がいい想い出をつくることになるだろう。
結局、『岳王廟』や『六和塔』には行けなかったけれど西湖が一望できる『西冷印社』を訪れることが出来たし、30分ほど西湖の周りを散策することができた。
こんどのツアー中で、この日がいちばんの天候に恵まれたのでした。
ひとり旅と複数での旅とのいちばんの違いは想い出を語るとき、自分が忘れてしまった記憶を他の人が鮮明に引き出してくれることである。3人いると一つのできごとでもそれぞれ違った記憶としてインプットされている場合が多い。振り返って語り合うとき、いちばん盛り上がるのがこの瞬間なのである。
これだけはどんなきままな「ひとり旅」にも勝る複数旅のおみやげである。
そう言った意味では、今回の旅は交易部主催の商業視察旅行であり、単なる名ばかりの「研修旅行」ではなかったけど、参加者に充分、中国の風景、風土を感じてもらえる旅だったのでは、と勝手に旅をプロデュースさせてもらったぼくとしてささやかな満足感がないでもない。
今までのストーリーはけっして順を追った今回のツアーの回想記ではない。
ぼくの『中国ぶらり旅』にならうと・・・・今まででいちばん長い『プロローグ』・・・・といえよう。
しかし、旅のエピソードは、今回もないわけではないが第一回交易部義烏視察旅行の記録として書き残したいことは実際はあまりない。
もとより、この章は、ぼくの『中国ひとり旅』の一地域紹介(思い出)なんだから、日中交易についての意見を述べる場所ではない。
とまあ思いつくまま写真をなぞって記憶をたどって見ることにしよう。
なにしろ今回は写真写しの達人、椨さんがいたので助かった。自分のアイアングルに近い人の写真をみると何故かほっとする。椨氏の画像はそんな気がする。
・・・・・・・・・10日夜、ツアーイベントが始まった。
一日目の夜の黄浦江夜景クルーズはぼくの体験ではちょっといまいちの感がした。
いちばん素晴らしい外灘(バンド)のライトアップされた建物群を見るには船が大きすぎた。
デッキが交代制になっていて乗船が遅かったので眺めの良い時間、ぼくらはラウンジにいてビールを飲んでいたからだ。
カリフォルニアからきた二人のアメリカマダムと椨さんと四人で西海岸の思い出話に椨さんは得意のイングリッシュで喋り捲っていた。
やはりクルージングは小船の方が良い、見た目はこちらが豪華かもしれないがカメラアングルには適さない。5年前、小林くんとここを訪れた時は車で浦東側に渡って、大きな海鮮料理店で結婚式を見ながら夕食をとり、そのまま、下におりるとクルーザーが待っていた。
それは、程よい大きさでゆれを感じる程の快感を受けながら30分ほど黄浦江を回遊した。
その時の写真を思い出して眺めてみた。写真には2002年2月17日と印字がしてあった。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA OLYMPUS DIGITAL CAMERA OLYMPUS DIGITAL CAMERA
・・・記憶をたどりながら回想文を考えているところに・・・・・
赤塚晴彦氏(義烏ツアーの団長)から画像が届きました。
赤塚団長の顔を思い出しながら写真を選ぶことにします。
この写真は同行した旅行社のカメラマンの余小姐との問答で歳を84歳と言われ頭にきて『ワタシの歳は94だ。10も若く言ってもらい謝謝!』と言っているシーンです。うしろはガイドの華さん。
旅行社のカメラマンはツアーに同行して勝手に写したり、団体写真を強要したりして帰りのバスのなかでアルバムにして1枚何と千円で売る。何かと手伝いをするので可哀想になってつい買うことになる。
それでは、しばらく団長から届いた写真を紹介していきます。まずは、その失礼な小太り、見た目は太って見えないけど、中国娘にはめずらしく腹回りがだぶついていた。
歳は22ぐらいと言ってたがわからない??すばしっこくて小太りのりすと言った感じだった。
左側ににいる赤いシャツにネクタイをしているバカの一つ覚え、とよく言うが、写真を撮るときは指をV字にするものと思っているのが『小太りリス』である。右手は可愛い中国小姐、かんがえるにこの写真、赤塚氏は右の小姐と、最初、ツーショットのつもりだったのでしょう。
そこに、すばしっこい「ぶーりす」が飛び込んで来た、さぞ、迷惑だったにちがいない。
ちなみにブーリスを人差し指で隠すと良い構図になっている。
右写真は赤塚氏の傑作といえる。
人にはそれぞれ個性があることが写真のスナップを見るとよく分かる。まちがってもぼくは、こんなベストショットは考えつかないのである。
ローラースケートで走り回る服務員たちには確かに驚いたけどぼくならお盆を手で抱え持つた全体像を撮るだろう。そんな思いで赤塚氏から頂いた写真を眺めているとあるある!「これは何の意味」「何に興味でシャッターを押したん??」
そんな写真を集めてみました。
上の四枚はおそらく文字を追ったのでしょう。
左は南京東路の『吉野家』のメニュー看板、何気なくかな?何だろう?バスのうしろ「追突しないでね。」ぼくは斜め前からかはなれて全体を写し、「利用したバスです。」あと1枚撮るなら運転手を前に、といったところか。不思議なのは2枚目の義烏の壁に貼った緑の看板、
左写真はベストスナップ、西湖をバックに結婚スナップ。問題は次の電話機、デザインに興味があったのだろうか,また、次のはたおり機?ですか?どこで撮ったのだろうか、そして、1枚の畑の写真。狙いは何か??是非お聞きしたいと思う。
もう一人写真をよく撮っていた会員がいた。仲宗根 剛氏(左)である
左から仲宗根・宮下・小屋・竹内の交易中心グループ。下左(仮眠中)の坂上氏。
早くからお願いしていたのだが画像CDが途中で滞っていたのである。
上海黄浦江クルーズのあとホテルに帰る前、ガイドの華さんがぼくの要望を聞いてくれて、南京東路から『新天地』を案内してくれた。この辺のところを書こうと思っているところだった。
仲宗根さんの写真もおもしろい。だいたい誰でも共通しているのだが撮られた写真は大きく分けると人物中心のスナップ写真。風物、風景、商店、商品(食べ物もも含むなど。)それと本人のこだわりもの。この3つに大別される。
最初の2つは殆んどが共通しているがおもしろいのは最後のこだわり写真である。
赤塚氏の場合は上の8点。
仲宗根さんは何だろうと思ってみてたら以下の車中のいねむり風景スナップである。
義烏商店の店舗写真も被写体がそれぞれたのしいのでアルバム帳にて紹介する。