まず岳飛を語ろう。
マルコポーロが「キンサイ」とよんだ杭州(当時は臨安)に今僕は居る。南宋が中国の都であり続けたのは150年に1年欠ける。
しばらく司馬遼太郎の「街道をゆく」を辿りながら南宋時代の岳飛の世界にタイムスリップしてみよう。
日本との比較を分かりやすく、大胆に?当ててみると大体、次のような感じか?つまり、宋は南宋の前に北宋時代があって、これが170年続いた。
日本では平安公卿藤原道長の頃である。そして平清盛から、武士・源頼朝に代表される鎌倉時代へ、南宋はそんな時代から北条の頃の話と思ったらいいのではなかろうか。
・・・「都市としての繁華さは、空前のものであった。商品経済の国内での充実が、やがて貿易に向かい、爆竹がはじけるようににぎわっていた。
唐(長安『今の西安』)との違いは、国力の弱さである。華北に展開する金という異様な国号をもつ異民族国家からの圧迫と、それについての危機感は、南宋の知識人の精神を前代(北宋)とは違うかたちで変形させた。
宋代においてはじめて強烈なかたちでの漢民族ナショナリズムが成立する。
杭州が南宋の行在所だった頃は、周囲をかこむ城壁の長さが160キロもあったという、まさに、当時、世界一の都市だったであろう。(『街道を行く』より)
「岳王廟」には是非行ってみたかったが、今回の旅程には入ってないとのことだった。
僕としては六和塔などより、もっと言えば、メインのコースである「西湖めぐり」をパスしてでも「岳王廟」を訪れてみたかった。、昼食時間が1時間あるというので、その時間を利用しない手はないと思い世話人の深栖さんに頼んでみた。「実は僕も一度行ってみたかったんですよ」
「西湖めぐり」を終えた僕らは、タクシーをひろって10分ほど離れた「岳王廟」をめざした。
「岳王廟」は南宋の武人岳飛(1103~41)の廟である。(以下「街道をゆく」より。)
岳飛は一介の武人で、むろん王などではなかったけどその死後人々が彼を敬愛したために南宋の朝廷が,死んで63年後に王号を追贈した。
このような例は,他に三国時代の蜀の武人関羽の例があるのみである。彼は唐代に「王」になり、明の代(1594年)には「帝」になった。以後、その廟は関帝廟と呼ばれている。
岳飛は日本でいえば、鎌倉末・室末初期の武人楠木正成(1294~1336)のような存在にあたる。
秦檜(1090~1155)という政治家がいた。
私どもが岳王廟の楼門を入った時にすぐ右の塀ぎわに座っている鋳鉄製の人物をみた。秦檜とその妻である。
2人の像は檻のような鉄柵の中に入れられ後手に縛られてひざまずいて座り、うなだれている。秦檜は南宋の宰相で、一代を通じて権勢を誇った。
その晩年、しきりに一族の繁華をはかり、政治を私物化した。最後も平穏で、栄耀に包まれて死んだ。ひとびとは、天道の不公平を思ったのであろう。
「死せる秦檜を鉄人として再生させ、さらしものの刑にかけて、醜を天下に晒させたい」という後世の民衆の思いが、こういうかたちをとった。
秦檜は,忠誠な将軍・岳飛を獄につなぎ、ついで殺したが、岳飛のこの場所にあっては逆になっている。宰相が檻に入れられ、はずかしめられているのである。
「唾をはきかけるな」と、塀の掲示板に書かれている。それでも地面に唾が落ちている事を見ると、秦檜夫妻に対してそのようにする風習は、時代がいくたび変わっても衰えないらしい。
秦檜は南京に生まれた。
北宋の末に科挙の試験に合格死、権勢家の孫娘をもらいその後、大いに有能な官僚として知られた。
北宋が滅亡した年(1127)に、金軍によって、北へ連れ去られ、三年後に帰された。
実際は、それとなく秦檜をおどし、暗に金のために間諜的な存在になれといったかもしれない。
南宋は金が恐かったので、金と繋がりのある秦檜を重用した。
時の皇帝は高宗である。高宗は秦檜を宰相にして、金との和解をはかった。
実際は南宋は弱くなく、特に岳飛軍は強かった。
戦えば必ず勝った。宗軍が勝っては困る)という、高度の観点からの矛盾を、高宗も秦檜も持った。
いったん臣下の礼をとった和平条約に背くばかりか、金を無用に怒らせ、ついには南宋そのものをも失うと秦檜はみた。このことは、秦檜の変わらぬ対金方針であり、高宗はそういう秦檜を信用した。
岳飛は、今の河南省湯陰の人である。農民の子として一兵卒からたたきあげ、まだ三十代のはじめというのに、湖北一帯に展開する大軍の将になった。その軍は「岳家軍」とよばれ、諸軍に抜きん出ていた。
秦檜は金と交渉をもち、新たな講和を申し入れていた。この政治レベルの方針と、岳飛をはじめ南宋の諸軍が大いに金軍に勝ち続けているという軍事状況があわず、
ついに秦檜は岳飛をはじめ諸将を呼び戻し、彼らに高位を与えると共に、兵馬の実権を中央に移した。岳飛は、このことに不満だった。
秦檜は岳飛を逮捕して、獄中で毒殺してしまった。岳飛、三十九歳である。彼は背に、「尽忠報国」という刺青をしていたという。
岳飛廟の本殿にあたる域内に入ると、巨大な白壁の城壁があって、「尽忠報国」と書かれている。
ついでながら、明治維新の功労者・西郷隆盛が、新政府の欧州追随姿勢に不満をもち、明治六年(1873)に陸軍大将の身で下野したとき、以下の詩をつくった。
彼はひそかに岳飛の心境だったらしい。
独不適時情 独りじじょうに適せず。
豈聴観笑声 あに観笑の声を聴かんや
雪羞論戦略 恥をすすぎ戦略を論じ
忘義唱和平 義を忘れ和平をとなう
秦檜多遺類 秦檜のいるい多く
武公難再生 武公再生し難し
正邪今那定 正邪いずれにか定めん
後世必知清 後世必ず清きを知らん
(「街道をゆく」)より。
西郷隆盛の遣(征)韓論についてホームページで興味深い見解を見つけた。少し、抜粋してみる。
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/
・・・・・・・ここで、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられたのですが、結局西郷の主張が通り西郷派遣が正式に決定されたのだが、しかし岩倉の最も腹黒い策略で、西郷の朝鮮派遣(単独での平和交渉)は潰されてしまった。
岩倉具視が閣議の決定を逆の派遣反対と偽って天皇に奏上してしまったのである。
一人の人間の私心によって、国の運命が決められたのだ。よくこの明治六年のいわゆる征韓論争は西郷ら外征派と大久保の論争と言われているが、それは事実に全く反している。
西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していない。
一方、内政を優先させるのが先決と主張した大久保の方だが、その後にしたことといえば、明治7年には台湾を武力で征伐し翌8年には、朝鮮と江華島で交戦し、軍艦に兵を乗せて送り込み修好条約を強引に結ばせてしまった。
これをもってしても外征派対内冶派という構図がいかにまやかしであったかが分かる。 出来上がった歴史の通説は必ずしも当てにならないのである。
個人の主観で歴史をみてしまい、そのまた主観というのが、当てにならない。NHKテレビの「そのとき歴史が動いた」ではないが、史実にもとずいて書かれた小説でも作者の思い入れというのが必ずあるのだから。
「通説」と「史実」いづれが真の事実なのか?これは、とてもむづかしい問題である。
「秦檜は言われるように本当に悪人だったのだろうか?」
帰りに深栖さんが言っていた。 僕は「政治家として,自国の為にした行為が許せないのではなく、人々が許せないのは、彼の生き様なんじゃないだろうか?」
「お互いに、自国のことを思い為したこととしたら、結末が余りにも不条理だ、と思ったのだろう。」と。
その頃の日本は、というと、鎌倉時代の源氏の時代から北条氏による執権政治が始まるころだろうか?そんな時代の話だとしたら、現在の我々の抱く人の道とはずいぶんと温度差があるのではないかと思う。
余談だが、西郷は何故、岳飛に心酔したかというと親交のあった福井藩士・橋本左内(景岳)の影響ではなかろうか。幼少より学を好み、10歳の時に『三国志』を通読したと言う。
26歳の若さで江戸伝馬町の獄舎にて斬首。
中国宗の武将岳飛を敬慕し、自ら景岳と号したのは12歳のときであった。左内は藩主松平春獄に近侍し日露同盟論に代表されるような世界的視野をもった国家体制の構想ひっさげ諸藩の有志(西郷や藤田東湖ら)と親交を結んだ。