Hu he hao te フ フ ホ ト
2006・9・7~9
フフホトは内蒙古自治区の首府である。人口213万人。
モンゴル語で「青い城」と言う意味である。内蒙古にはホトという語句の地名が多い。ホトとはモンゴル語で〈港)という意味だと金トンさんに聞いた。トルコ近辺の西域には・・後ろにスタン(アフガニスタン)という語句がついた地名が多いのと同じである。
市内には20万もの蒙古人が住んでいるという。16世紀の中頃、明の万暦帝のとき、建設された。 1915年にモンゴル・ロシア・中国との間で交わされたキャフタ条約で、内モンゴルと外モンゴルに分割。
日中戦争時は、日本が内モンゴルの一部を支配した。 市内の看板にはモンゴル文字が併記されている。
ウルムチやトルファンの看板にウイグル文字が併記されているのと同じである。ここは元は別の国だったのか、と思い知らされる光景である。
この美しい草原の日の出はシラムレンで偶然知合った旅人
京都から来ていた佐藤くんからの提供。僕は寒くて泊らなかったが、今思えば自分で撮りたかった。
●はじめての内モンゴル
ポツポツと街の灯かりが視界に入ってきた。時計の針は10時をとっくに回っていた。
まもなく着陸だろう。機内は真っ暗で何も見えない。高度が下がっているのは身体へかかる気圧の具合で分かるのだが乗客は皆静かで、着陸前のいつもの雰囲気は見られない。
と突然、目の中にキラキラ光るものが見え始めた、と思ったら雨に濡れた滑走路が目の前に迫っていた。
「ガクン!」という音と共に機は着地した。アナウンスは勿論、ベルト着用のサインも付かなかった(見逃したのかも知れない)
上海航空737機は、フフホト白塔空港へ無事に着陸した。現在時刻は午後10時28分 2時間10分の飛行時間ということになる。(感想・・・やれやれ。である)
いまいちばん心配なことはホテルに、何時に着くか、と言うことだった。
最初の計画ではリムジンバスに乗るつもりていた。今回の旅はいかにタクシーを利用しないようにするか、ということだった。
『地球の歩き方』によると、市中心部までの距離は15k、エアポートバスで40分,、料金は5元とあった。ちなみにタクシー代は30元と書いてあった。
荷物を受け取り、外に出るまでの時間を早く見ても30分とすれば11時にタクシーに乗っても11時30分にホテル着ということになる。
(ホテルに電話をしなくて大丈夫だろうか?) いろいろな雑念が頭をよぎる(我累了)
もう15分も待っているのに荷物の乗るはずのターンベルトは動く気配すら無い。
「やはり機内持ち込みをするんだった。」その為にわざわざ小さなスーツケースを娘に借りてきたのだったのに。と又、小さな後悔。
中国旅行に「後悔」はつきもののようだ(読んでくれている中国人朋友へ 真対不起) ぼく個人の問題なので誤解しないように。
今回も3つの大きな後悔をしてしまった。今、書いてしまうと面白くないのでその都度、書くことにする。
スーツケースの中からたった一枚だけ持ってきていた長袖トレーナーを引っぱり出し、Tシヤツの上からはおる。
空港ターミナルを出た。この瞬間の凍えるような寒さ(冷たさ)を文章でどう表現していいのだろうか。
出発前日に丁さんから電話があった。
「フフホトはとても寒いですよ。明日は最低気温が4℃だって金トンさんから電話が来たよ。ぜったいセーターか防寒衣必要と思います。」
「我慢、我慢、そこだけのためにそんなのスーツケースに入らないよ。」
「だったら、中国で買ったらどうですか、安いでしょう。」
そんな会話がよぎったが、あの時は寒さに対する感覚が麻痺していた。又、小さな後悔。
目をすぼめながらあたりを見回すけど、バスらしき姿はその辺には見当らない。
よく見ると50mぐらい先にタクシーが並んでいるのが見えた。
そして、かけて行く乗客たちの姿が目に入った。
『まずい、乗り損なったら大変なことになる。」焦りが走った。
冷静に考えたら中国で乗客がいるのにタクシーが無いということはラッシュ時の上海、北京ならいざしらず、ありえないことだ。
多分、順番通りなのか?女のドライバーが待っていた。
「もう連絡バスはいません。遅いから帰ってしまったよ。」
そう聞いてやっと分かった。乗ってきた737は故障機の代替機ではなく、要は予定とおりの最終便だったのだ。そういえば乗るとき、機内には結構たくさんの乗客が座っていた。
言葉が分からないと、細かい事情は想像の域を出ないということである。
深夜だから50元だという。他のタクシーも申し合わせだから一緒だ、と(司机)は言う。
もう、交渉などしている余裕はなかった。「騙されてるかもしれないけど300円のことで
万一、おいてきぼりにでもなったら大変なことだ。」ぼくは急いでOK!と言い、スーツケースを後部トランクに納めホテルへ向けてスタートした。
「どこから来たのか?台湾人ですか?」と運転手は言う。この時期、台湾からの旅行者が多いのだという。
「昨日から、急に気温が下がったので草原は雪が積もってるかもしれません。」と言う。
「旅行社に任しているけど本当は四子王旗か輝勝錫?が良いと聞いて来たんだけど。」と言うと、「この時期はどこも余り草はよくない。多分、シラムレンあたりがかえって綺麗かも知れません。この頃はたいていのツアーがシラムレンだと聞いてます。」との返事。
「あなたがもし希望のところに行きたかったら、アタシが連れて行ってもよい。」と言う。
・・誰もいない草原にひとりで馬に乗り、パオに震えながら泊る様子が目に浮かんだ。
「もう予約済みだから、いいよ。」と答えた。
夜の道路は殆んど他に車はなく、なんと20分そこそこで「昭君大酒店」に着いた。
11時30分(日本時間の午前0時半)だった。(写真6・7・8)
明日の「草原ツアー」の予約を確認して何のこともなくチェックインを済ませ部屋へ。
エアコンの効いた暖かい部屋がうれしかった。(写真3)
かくして、とてもとても長い(2日目)が終った。明日はいよいよ「草原」が待っている。
ジンギス汗が草原を駆けたあのモンゴル馬で草原を駆けるのだ。
9月8日(金)
朝、6時40分、7時半に呼早(モーニングコール)を頼んでおいたが1時間も早く目が覚めてしまった。実は、又、朝からハプニングが起きてしまったのだ。
二階ホールで朝食を、まさに食べようとしていた時、携帯が鳴った。(写真10)
この時間なら丁さんか、アモイの上山氏かと思っていたら突然、聞きなれない中国語である。」
てっきり丁さんの紹介してくれた金トンさんかと思った。あとで判ったのだが、今日のツアーの運転手だったのだが。
いつもの習慣で中国ツアーの場合、連絡は最初、女性ガイドから来るものと思っていたのでこれは金トンさんだとばかり早トチリしてしまった。
「あなたは丁さんの友人の金トンさんですか?」
「そうです。」
「私は丁さんの知人で日本から来ました大石ともうします。」
「・・・・・・・・・」
「今、昭君ホテルで朝食をとっています。あなたは今、どこにおられますか?」
「わたしは今このホテルにいますよ。」
「えっ,何ですって! 昭君ホテルにいるんですか?」
「対了。」
「ぼくは8時半からシラムレンに行くことにしてます。明日、午後には包頭に行きますね」
「9時ですよね。?????出発は?????」
「ご挨拶をしたいので食堂までこられませんか?」
「2階ですね?」
「対ヤ。我等ニ」 これぼくです。お待ちしています。のつもり。ニはあなたの意味です。
かくして、私たちは全然人違いをしたまま、食堂の入口で、すれ違いの会話が数分続いたのです。
そして、お互いの名刺交換で,初めて人違いに気づいたのである。
(草原ツアー??有限公司 ・金福星)・・・・・名刺にはそう書かれていた。
「あ、不好意思、我弄錯了!」 (スミマセン、人違いでした。)
彼は相変わらずニコニコしていた。
そして、ぼくは朝飯もそこそこに出発準備のため部屋に戻った。
結局、シラムレン行の面包車(マイクロ)に乗ったのはぼくの他は一人の欧米人と二人の東洋人(多分、中国人)の四人だった。あとで、話をしたら、彼は上海に企業派遣されているオランダ人だと言った。(馬に乗っている外人がその人)写真を送ろうと思うけど交歓した名刺が行方不明。
運転手の話だと、シラムレンまでの距離は170kmと言う。
市街地を抜けると舗装されていないガタガタ道が続く、空腹の胃が踊っている。道路の脇を見ると、なんと水なしの川底を車は走っていた。
しばらくすると山の中を車は走る。そして又、綺麗な舗装道路があらわれる。車は陰山山脈に入ったのだろうか。
車窓からみえる景色に緑は少ない。日本だと緯度的には紅葉が続いて見える筈、秋の日本の自然のすばらしさをふと思い出す。
このあたりも大昔は原生林だったと聞いている。中国北部の砂漠化のことも頭をよぎる。やがて、この山を越えると、いよいよどこまでも続くあの大草原が待っているのだろうか。
とつぜん運転手兼ガイドの金さんから説明が始まった。
「車が着いたら1つのセレモニーがありますよ。みなさん車を降りたら回りに歌を唄いながらモンゴルの若者たちが待っています。歓迎のお酒を飲ませます。」(14番目の写真)
「まず、左手で杯を受けます。すると、お酒(馬乳酒)をついでくれます。」
右手の人差し指で軽く酒にふれ、その指を自分の胸に当てます。
又、指を少し酒をふれ(つけ)、今度はその指を天に指します。
そしてから、そのお酒を一気に飲み干して終わりです。」
とうぜん、ぼくはよく意味がわからない。要点だけは何となく分かった。
ほどなく車は村の入口に着くと、予定通りの賑やかな儀式は終った。
写真は残念ながら撮りそこなった。というより、ぼくはその時、デジカメを撮影モードに切り替えていたのだ。
歌も入るのならこれは絶対、ムービー設定にして、帰ってから家族に見せよう。と車が到着する前から準備していた。
もし、このHP上で再生出来たらと思って挑戦してみたが難しかった。
とにかく大気は寒い。時折、吹雪のように横殴りに小雪が舞う。まあ、最悪の天候といっていいだろう。
小さな包に連れて行かれると,そこは売店だった。「防寒衣は要らないか?」と言う。もう絶対これを着ないで馬には乗れない。
早速、軍手と一緒に借りた。60元の借り賃にヤージンが140元だという。(15番目の写真)
さっそく4人のグループで乗馬初挑戦である。
とにかく寒いのだ。(爽快)(のどか)(颯爽)(高揚)などといった初めての草原疾走へのときめきはゼロといっていい状態である。
ぼくにあたった馬はぼく好みの黒褐色。鐙(あぶみ)も銀色でとても気に入った。
●チンギス汗とモンゴル馬
さて、ここでモンゴル馬についてちょっと書いてみたい。
十三世紀に現れたチンギス汗は、広大なユーラシア大陸に空前絶後の世界帝国を築いたが、その最大の秘密は、兵器としての馬をモンゴル馬という小型馬にこだわったことである。
チンギス汗は愛馬を持たなかったという。この小さな馬をチンギス汗は兵器とわりきり、疲れた馬は補充の馬につぎつぎに乗り換えていった。
青草しか食べないモンゴル馬と穀物をいっぱい食べている大型馬(サラブレットなど)とではスピードも持久力も大型馬にはかなわない。
モンゴル軍は青草だけで耐える小型馬を一人で数頭つれ、乗っていた馬が疲れれば、補充の馬に乗り換え、疲れた馬を休ませ、その繰り返しで遠征を繰り返したという。
意識的に改良しようとしなかったモンゴル馬は,小さいばかりか,見栄えもしない。
頭が不格好に大きく,首もふとい。たてがみが多く、尻尾も異様に多く長い。眼が小さくて、耳もみじかく,厚い。もちろん背も低く、足はからだにくらべて太く、スマートさはないし速そうな感じもしない。
おまけに 馬は小さい馬ほど性格的にあつかいにくいところがあるらしい。自己主張が強く、頑固で、気も荒く、人を乗せたがらないのだと。
だが、彼等はたくみに調整して、これらの気性を逆にがまん強く、勇敢な馬に仕立て上げたのである。
チンギス汗の兵士についてマルコポーロは書いている。
「彼等は遠征のとき、雨を防ぐための小さなテント以外、道具は何も持ってゆかない。
食事もとらず、連続十日も騎行する。
そんな時は馬の血だけで飢えをしのぐ。まず血管を切り開き、血を自分の口にほとばしらせ、満腹するまで飲んで、血止めをしておく」
チンギスの率いる軍団が優秀だったのは、ヨーロッパにおいてもっとも進んだ馬といわれるような大きな馬に乗り換えるチャンスが多かったにも関わらず,食指を動かさなかったことである。
また馬種を改良しようとしなかったことである。乗ってみて,味の良さやスピードには感心しただろうが、遊牧には適さず、したがって、長距離の遠征にも適さないと判断したに違いない。
モンゴル軍の成功の秘密は長距離遠征を可能にしたモンゴル馬だったのである。
今、乗ろうとしている馬は確かにモンゴル馬に違いないが、ロバに乗ろうとしているとは正直、思わなかった。鐙に足をかけ、そのまま馬の背に乗れるぐらいの高さだから小さい馬には違いないのだろうが。
実は馬に乗るのは初めての経験だ。
かって、志布志の馬場で有料の馬に乗ったことがある。でも、轡(くつわ)を係りの人が持って引いて歩く(コースを回る)だけだった。
今日は一人で何時間も乗り回すという。正直のところ、少しドキドキしていた。まさか落ちはしないだろうが。
HPを読むと、そのうちお尻や内股が痛くなり、尻を浮かさないと耐えられなくなると書いてあったのもあった。
さあ、それらのすべてを自分で今から体験するとしょう。
・・・とまあ、そんなことを考えるまもなく、先導馬のモンゴルおじさんが駆け出して行った。
それにつられぼくらの馬も続く。
鞍に付いたまるい金具を両手で持つのか、それとも、とても貧弱な紐の手綱を持つのか、ラクダのときは確か、金具だったと思う。思い出した。去年、済南(jinann)の黄河の横の記念植物公園で馬に乗ったときは手綱しかなかったはず。
四人を乗せた馬はどうやら1つのしつけられた行動をとっているのが段々分かってきた。
先頭を走る馬が必ずしもモンゴルおじさん<年齢は30代かも>とは限らない。
だけど歩く時、駆け足のとき、そしてかなり全力疾走(体感は競馬のレースもどきである)実際、このときは武豊もどきに尻を浮かせ前傾姿勢をとってしまう。もう、帽子も吹っ飛びそうだった。
そして、約10分以上は全力疾走する。
(ほんとう)この時は、手綱と金具と両方を掴みたくなる。
そして、突然、いっせいに駆け足状態にもどる。これが不思議だったが、やがてわかった。
モンゴルおじさんの唄う歌に馬は反応していたのだ。
道理でへたな歌を大声で唄いながら乗っていると思っていた。
一時間ほど駆けて行くと数本の木が立っているところで馬達は止まった。
50メートルほど先にきたないトタンの壁板があった。大きな字でWCとかいてある。<写真参照>
横には包が建っていて休憩が出来るようになっている。蒙古流のお茶とお茶菓子を振舞われる。珍しいので片っ端から味見してみる。(很好吃)
戻りは、他の騎馬集団と合流してしまった。4人で走っていたときとはまた全然気持ちが違う。まさに中原を駆ける曹操軍の気持ちだ。
疾走がはじまると皆が一斉に大声を発する。その言葉が中国語だけに大迫力である。自分も1800年前の『三国志』の世界にタイムスリップしたかのようだった。
もうこの体感だけでぼくはここに来てよかったと思うことだった。
草原の緑が少ないとか、天気が悪いとか、そんな行楽気分で馬に乗るより、この迫力は何だろう。ほんに数時間でぼくはもうモンゴル馬のベテラン騎手に変わっていた。
包に戻る頃は身体もけっこう温まっていたけど内股やお尻よりぼくの場合は足のすね辺りがとても痛かった。知らずのうちに両足で馬の腹を締め付けていたのかもしれない。
お昼の食事を取るため食堂包(と言うのかどうか?正式名は我不知道)に入る。
そこで京都から来た日本人に会う。もう全く彼が日本人には見えなかった。中国もどこか南方人と言った感じだった。でも、中国語なまりの日本語をしゃべった。
京男がああいう場所で日本語を喋ると中国人がなれない日本語をゆっくり話しているように聞こえた。もっとも彼、佐藤くんは同じイントネーションで中国普通語もしゃべる。
翌日、偶然にも又フフホトの「蒙古博物館」で彼に逢った。
今夜、11時の北京行硬座で帰るそうだ。「それまでぶらぶらします。」と言う。
「じゃあ、ぼくと一緒に回りませんか?」「ありがたいです。」
というわけで一緒にフフホトを回ることになった。
半日以上、行動を共にしたとき聞いた話によると、彼は中国語の歌を唄うのが得意なそうで(自分で言っていたから本当だろう)。
北京のカラオケで歌ったら、一人の中国人が「おまえさん、今度、北京TVのからおけ大会にでたらいい」と本気で勧められたらしい。
後日、佐藤くんから一緒にフフホト観光地めぐりをした御礼のメールが届いた。
そして、あの日、あの後、かれは寒いシラムレン草原の包に泊った。と、あのあとの報告を告げてくれた。おかげでぼくはとても深い、ふかい大後悔に落ちこんでしまったのだ。
そして、彼の送ってくれた数枚の写真とメッセージはかれへの羨慕(xian mu)を駆り立てた。
話が前後したり早送りされたりで読者には申し訳ないが。
実は、今、翌日(9日)の午後3時である。
フフホト市の繁華大街にいる。
包頭(バオトウ)に今から出発する。メンバーは四人。ぼく以外は金トンさんと、あとは丁さんの叔父さん・劉恩情氏の会社の方である。
昨日はシラムレンには泊らなかった。包を覗いているとき、鹿児島の丁さんから国際携帯が入った。
「オオイシさん。今、何してますか?」
「おお、丁さん、今、草原(ツァオユェンと中国語では言います。)にいる。すげぇ寒いよもしかしたらここには泊らないかも知れない。」
「そうですか?もし、今日、午後フフホトに帰るなら私に言ってください。叔父さんが一緒に食事をしたい。と言ってます。ホテルも叔父さんの知ってるところで半額で泊れるそうです。もし、そこに泊らないなら私に電話ください。」
一旦、電話を切ったあと、僕のあたまの中にはシラムレンの夜中の360度の星空や朝の日の出の美しさなどすっかり消えてしまっていた。
「ぼくはここの包に泊ります。」と言う彼が気の毒にすら思っていた。
「昨夜は包の中は案外寒くなかったです。よく眠れました。ぼくはどこでも大丈夫ですから。そうそう、夜中に包の窓のところに馬が来て中を覗いてました。目が覚めたので外に出たら 星がいっぱいでした。
明日の朝は晴れる、朝日が拝めると、楽しみに寝ました。
だけど、朝起きてみたら霧雨というか、けぶっていて水平線に上る太陽ははっきり見えませんでした。じつは楽しみにしていたんですけどね。」
丁さんからほどなく電話が這入った。帰ることにしました。早かったら、帰ってから「内蒙古博物館」でも行くつもりでいた。丁さんが言った。
「大石さんはホテルに戻っていてください。金トンさんがホテルに迎えに行きます。」
「そして、新しいホテルに案内します。夕方、迎えに来ますから、一緒に皆で晩餐会をしましょう。と叔父さんが言ってます。わかりましたか?」
一度は叔父さんにもお会いたかったし、明日からお世話になる包頭のツアーのお礼や持ってきたほんの気持ちばかりのプレゼントも渡すいい機会だったので,丁さんのこころ配りに甘えることにした。
・・・・それらしき二枚の写真は、上が内モンゴルの大富豪・劉恩情氏とのスナップ。下の写真は真ん中が金トンさんと会社の同僚。手前の人は確か陳さん(上海人)で、金トンさんとこのあとずっと一緒の行動をしました。
フフホトの観光地では行きたいところが3つあった。
ひとり歩きを予定していたので郊外にある『昭君墓』は無理だろうと思っていた。『地球の歩き方』には(見どころ・・・)というページがあって★マークでランク付けがしてある。
実は「内蒙古博物館」はいちばん気になっていた場所だった。★1つだったけどここは数年前内モンゴルで発掘された巨大恐竜の化石があることで知っていた。
館内左の入口を入るとすぐのところに巨大なマンモスの模型があった。その奥を突き当たり右折した奥にめざす恐竜の化石模型はあった。
朝、早いのに地元の小学生の団体が先生に引率されて課外学習に来ていた。
写真を撮ろうと、こども達をかわして前に出たところで見覚えのある男が立っていた。
ほんの一瞬だが自分がツアーで回っているのか?と錯覚をおぼえた。
昨日、「草原ツアー」で出会った日本人・佐藤くんだった。
中国旅行ではこういうことはよくあることで思いがけない偶然のひとコマだった。
金トンさんが,お寺に行く前に『昭君墓』に行きましょう、と言った。市内から8キロほど離れたところにその場所はあった。
ウイークデーだったせいか『昭君墓』公園は観光客も少なく、広い整備された公園はのどかな秋の日差しを浴びて、とても心地よい気分だった。(金トンさんのおかげです。謝謝多分独りでは訪れなかった場所だったと思う。)
王昭君と言っても失礼だが知らない方も多いと思う。実はぼくも中国の旅をするから少しは知っているものの詳しくは知らない。
折角、彼女(王昭君は女性です。)の墓まで参ったのだから逸話(正史は殆んど無いらしい)を書いてフフホト日記の終わりにしたい。
●王昭君物語
王昭君は楊貴妃,西施、ちょう蝉(セン)と並び古代中国の四大美人といわれている。
当時の時代背景
紀元前51年,前漢の宣帝(元帝の父)の時、てこずっていた北の匈奴が和睦を乞うてきた。匈奴が内部紛争で分裂、弱体化して、漢に対抗できなくなってきた。
匈奴の王、呼韓邪単干は長安に赴き、臣下の礼をとった。
これにより漢の北方の脅威が除かれた。特に匈奴の領地に近い集落の人々は毎年、冬になると匈奴の略奪を受け悩まされていただけに喜びも大きかったという。
宣帝は単干に皇族と同等の地位を与え、金銀財宝なども贈るという最高の処遇をした。
2年後、宣帝が没し、皇太子が跡を継いだ。元帝である。
元帝は宣帝ほど優れた才は持ち合わせていなかったが、宣帝のおかげで何事もなく治世が続いた。
紀元前36年、分裂していたもう1つの匈奴が漢軍に滅ぼされた。そしてその匈奴の大将(単干)の首が長安にさらされた。
「漢に背いた蛮族は皆このようになるのだ。」
この事件は漢に服す他の民族を震え上がらせ、とりわけ同じ匈奴である呼韓邪単干は大いに危機を感じた。
なにしろ宣帝の時代に和を乞うてから13年、一度も長安に参内していなかったからだ。こうして呼韓邪単干は自ら長安へ上ることを決心したのである。
● 後宮でもっとも醜い女
王昭君は王氏(現在の湖北省沙市(長江沿い)という豪族の娘として生まれた。
若くしてその美貌は世間で噂されるほどに美しく、その噂は王宮にも届き、18歳のとき後宮入りをはたした。
当時、元帝は三千人といわれる美女を後宮に住まわせていた。元帝はあまりに多すぎるので係りの絵描きに似顔絵を描かせて、気に入った女を寝室に呼ぶと言う具合であった。
後宮の女たちは皇帝の寵愛をうるためには自分をより美しく描いてもらおうと画工の前に金品をつんだりした。
その有様を冷たい目線で傍観する女がいた。王昭君である。
王昭君は画工(毛延寿という)に決して賄賂を贈ろうとしなかった。実際、彼女は自分の美貌に自信があり、周りの女たちも一目おく存在であった。
女たちにちやほやされて有頂天の毛延寿は自分を見下したような王昭君が気に入らなかった。
『あの女、わしを軽んじおって,いくら美しかろうがわしの気分次第だということを思い知らせてやる。」
こうして、画工に嫌われた王昭君は、似ても似つかぬほど醜く描かれてしまったのある。これでは皇帝からお呼びがかかることはなかった。
単干(君主)の願い
紀元前33年、呼韓邪単干(こかんやぜんう)は長安で元帝に謁見した。属国でありながら16年間も一度も参内しなかったことに対する申し開きをし、匈奴が漢に恭順していることを示そうとしたのである。
「臣はこの十数年、常々入朝したく願っておりましたが、ご存知のとおり、わが匈奴は長きに亘って内部紛争が続き土地を離れることが出来ずにいました。この度、漢帝が別の匈奴を討伐してくださり、やっと参代がかないました。ここに、改めて和を結び、漢と匈奴の安寧のために尽くす所存です」
「うむ!」
単干の心配とは裏腹に元帝の機嫌はすこぶるよかった。長年の北,西の脅威が払われたことに対し感銘に浸っていたのである。
「天子に申し上げたきことが・・・・・」
呼韓邪単干は女たちが騒ぎ、音楽で賑わう宴の場で静かに口を開いた。
醜女選出
「何?!漢と婚姻を結びたいと?」
「はい、漢室の女性をぜひわが国の皇后に迎えたいのです。」
元帝は考えた。匈奴と親戚関係にあることは、今後の外交上、漢にとっても有益なことである。元帝は快く承諾し、吉日を選んでふさわしい女性を与えることを約束した。
漢室の女と言えば皇后が王姓であることから元帝は例の似顔絵の中から王姓の女だけを選出させた。一枚を取り出し軽い驚きを覚えた。
「なんと・・・このような醜い女が後宮にいるのか、よくぞ入れたものだ。よし、単干にこの女を与えよう。」
じつは元帝は自分の美女たちをやるのが惜しくなっていたのだった。っそこで、後宮内の醜い女を嫁がせようとおもったのだ。いうまでもなく王昭君が選ばれた。
当然、呼韓邪単干(こかんやぜんう)のよろこびは大そうなものだった。呼韓邪単干が匈奴に帰国することになり、挨拶のために元帝に謁見した。
・・・・・・・・・・・・・
顔を上げた王昭君の眼に驚きの顔で固まっている元帝の顔が見えた。
・・・・・・・・・・・・・
「なんということだ!」後宮にあれほどの美人がいたとは、本当に似顔絵の女なのか!毛延寿を呼べ!!。」
元帝の怒りとくやしさは頂点に達していた。皇帝がいまさら「返せ!」とは口が裂けても言えない。画工を厳しく問い詰めたところすべてが露呈した。画工・毛延寿は処刑された。
そして、同じ年の5月、元帝が急死したのである。
王昭君は呼韓邪単干にはもちろんのこと匈奴の民にも大切にされ、やがて男児を設けたが、とついで三年目に呼韓邪単干も亡くなった。
そして匈奴の慣習に従って呼韓邪単干の正妻の子(皇太子)に嫁ぐことになった。王昭君は嫌がったが認められず仕方なく皇太子の妻になり、やがて二女をもうけた。
王昭君が匈奴に嫁いだことによって、長い間、紛争を繰り返していた匈奴と漢に60年余りに及ぶ平和がもたらされた。後の人は彼女を両国の和睦の象徴として賞賛したという。
ぼくが訪れた『王昭君公園』の墓に向かうメイン通りの中央には共に馬に乗り、寄り添うように並んでいる像が建てられている。
横のプロフィールとその上の工事現場はお世話になった丁さんの叔父さんです。
右は叔父さんこと劉恩情氏の会社のHP http://www.mengzhengyaoye.com
『昭君墓』を後にしたぼくたちは次の目的地『大召』へ向かった。
そのあと昼食をすませ佐藤くんと街中で別れ包頭へ向かった。
次は包頭へとびます。
オランダ人他のグループのセレモニー左の写真を見ると鞍の前に楕円の金輪が付いているのが分かる。多分、想像だけど、素人?女性騎手の場合は両手で金具をしっかり持っているだけで馬が勝手に左右に行動するようになっているのかも知れない。