リー ジェン
麗江を一語で表すと、私は水と言いたい。
ナシ族もキーワードのひとつ。
ホテル(格欄大酒店)より南に5分ぐらいの所にある。このあたりから格好のブラブラ散歩道が続く。
納西古樂
ナシ族の伝統的な音楽を、古代の象形文字や神様の絵を施した内装の会場にて鑑賞できる。演奏は老トンパガヤクの角を持ってお経を唱えてのち、厳かに始まります。琵琶や低胡琴や、古代ペルシャの楽器、モンゴル族の弦楽器・蘇古篤(そくど)などを用い、独特の雰囲気をかもしだす。
僕と兄はガイドの小姐がなにやら、老トンパの親戚とかで、それこそ一番前の席で見させてもらった。右から二番目の楽師が亡き父・実るさんに似ていて、兄と「アレッこんな所に生まれ変わったんだろうか」と笑いながら語ることだった。ちなみに、老トンパは左から二番目の人。
兄はいたく気に入った様子だった。僕は少し眠たかったけど、何しろ。一番前だったので楽師等と目が合うことしばしばで、我慢していた。目の保養になりそうな可愛い小姐の出番はなく殆どが年配だったことも原因してたかも知れない。
玉泉公園
1737年に造られた。橋の向こうに天気の良い日には雪をいただいた玉龍雪山がそびえ、それが湖面に映り、素晴らしい光景となる。左上写真、頂上が雲に覆われているのが、玉龍雪山。
街のごく自然な生活、人々、市場、屋台・・・・人々の営みの風景です。
大理から麗江へはバスで行った。約3時間ぐらいだったか。こちらの田園風景と殆ど代わりがない。途中、田植えの光景に出会った。バスを止めると,気づいて、おばさんが手を振ってくれた。よくあるシーンなのだろう。走っているとどんどん高く上っていくのが分かる多分、標高3000メートル近くだろう。桜島の3倍の高さと思うと驚く。でも、山の中腹のゴルフ場にでも行く途中のような気がしないでもない。
何回か部落(村)に出くわす。家々の造りで「アッ今雲南地方を走っているのだ」と思う。建物が専門の第一工大の田良島教授なら。「部落の建物」をデジカメでせっせと写されていたにちがいない。
教授のためというわけではないが麗江の建物について言うと、当地は、木造建築を良く見かけた。
中国を毎年歩いていると建物の工事現場に良く出くわすが、殆どが鉄筋かブロックかまだレンガ造りにもお目にかかる。ところが、麗江では木造を良く見かけた。なぜかは分からない。1996年の大震災で木造家屋の方が壊れにくかったのかも知れない。
もっとも、麗江の街の歴史が、木造家屋と石畳で成り立っている。その昔、麗江を支配していた、木?と言う名前の人が、自分の名前が「木」だから街を城壁で囲むと「困」になってしまうので城壁も造らなかったらしい、それから考えると建物も木造を推奨したのかもしれない。ともかく、麗江の街が何故かしら、しっとり落ち着いて居心地がよいのは、木造家屋・石畳・綺麗な水があふれるように流れている水路・暖かい気候・そのハーモニーが絶妙に旅人を和ませてくれるからではないか。まあ今流に言うと「癒し」の街といったところか。
四方街
東大街をまっすぐ行き橋を渡ると、そこは世界文化遺産・四方街だ、納西族の部落が広がる。
二軒ほど、ガイドに案内してもらって、屋敷内を案内してもらった。こちらで言うと、知覧の武家屋敷で住まいながら、観光客に開放している、と言った感じかもしれない。真ん中の写真もそうだが、住人が近所の友達と麻雀に興じていた。私たちが覗いても、殆ど無関心な所を見ると、日常茶飯事に見学されているのかもしれない。
新華街と東大街は水路を挟んである。
左写真は東大街・右は新華街である。半日ぐらいの滞在で、後はあちこちの観光地めぐりだった。出来ることならせめて、二、三日は逗留してこの付近に馴染んでみたいと心から思った。
今まで回ってきた中国のどの界隈にもない雰囲気をもった街だった。
例によって、松間和尚が真鋳のなべ釜・急須・薬缶・箸もろもろに目がテンになって30分は値段の交渉にかかった。
いつもの光景だが、これもまた私たちの旅の楽しみと言える。
生きた中国語会話の最高の現場なのかも知れない。清流の横に4人掛けのイスとテーブルを置き食べ物を食べたり、アイスクリームなめたり、はてはマージャンに興じたり、呑気に土岐を愉しんでいるように見える。
玉泉公園の中にある**楼で双腕のない若き日の陸上選手が口で書を書いていた。
又、トンパ博物館では,老トンパがトンパ文字で客の希望の文字を書き販売していた。
2002年1月14日成人の日が過ぎてから大理・麗江紀行「雲南の春を行くはスタートしました。
1月13日は近辺商店街の合同イベント「ゆめの市」がありそれのホームページ作り、そして又、15日には新しい超低床電車「ユートラム」の出発式のホームページ作成。と続きとても忙しい1週間でした。
百枚以上のデジカメ写真と、ムービーからとったスチル写真をどう組み入れていくか、楽しみと苦しみの1週間でもありました。
出来れば、もっとゆっくり文章を打ち込みたかったのですが、毎度のことで写真の説明文で終わっています。フン切りの悪い文章で、そのうち形態を変えなければと思っています。例えば、文章をメモ書きして、その文章を打ち込み、修正しながら写真を選ぶ・・とか。
このあと、石林や昆明などを作って記録に残していきたいと思っています
2002・1・19 おおいしけいじ