武漢

武  漢

ウ     ハン

長い移動の足として
活躍してくれたバス

三峡クルーズの旅

三国志の舞台を訪ねる8日間

~成都・重慶・武漢・上海 の旅も、アッというまに過ぎてしまった。

昨日で6日目の宿泊が終わった。今日で7日目ということになる。

今夕は空路・上海に飛ぶ。明日の朝は上海を発ち、日本へ戻る。8日目はないのだ。

成都に着いた時と同じ感慨に一瞬、浸る。正直言って、未だ帰りたくない。

・・・といつも思う。ゆっくり、中国を歩けるのは今日一日か、と思うと気が滅入る、否、入る思いである。

白帝城も行けなかったし、荊州も物足りなかった。欲をいえばきりがない。

しかし、いろんなことを思い出してみると今回のグローバル深栖企画は他のツアーとは一味も二味も違ったグッドツアーだった。と思う。mr・深栖に早々とお礼を申し上げておく。

武漢編でどうしても書いておきたいことが三つ。二つは伝説である。そのひとつ、

屈原伝説から、お話しよう。

屈原(約紀元前340年~278年ごろ)は中国で最も早くあらわれた偉大な愛国詩人である。

彼は楚の国、(戦国時代)において太夫(役員)を勤めていたけど、権奸の排斥をうけて放逐されてしまった。

晋(韓・趙・魏)を手中におさめた秦は、つづいて南方に矛先を向け、春秋時代(孔子・孟子・荘子・老子の活躍したいわゆる「百家争鳴の時代」)には、中原を脅かしたこともある楚を攻めた。

ほどなく楚の都が秦の兵に攻め落とされたとき、彼は身をもって国に殉じ、汨羅江に身を投じた。

彼の「離騒」「九章」「九歌」などは、古今に伝わり、世界の文化史上高い地位をうけている。

さて、毎年五月五日の端午節には、中国各地ではチマキを食べ、竜船のレースの習わしがある。屈原の古里には面白い物語が伝わっている。

屈原が汨羅江に身を投げてからの ある夜のことだった。

屈原の故里の人々は、屈原が戻って来たのを夢の中で見た。

屈原は冠を被り、帯をしめ、生前のままの姿で、ただ、表情だけが、やや憂いをおび、やつれて見えた。人々は喜び、かけよって屈原におじぎをした。

屈原も礼を返しながら、笑って言った。

「あなたがたの心ざしはありがたい。楚の人たちは愛すべきものを愛し、憎むべきものを憎み、私を忘れては居なかった。死んでも心残りは無い」

人々は屈原の身体が以前のように丈夫でないのに気づき「屈大夫、わたしたちがとどけたご飯は、食べられましたか?」と聞いた。

屈原はため息をついていった。「残念ながら、魚やエビに食べられてしまった。」 人々はそれを聞いてたづねた。

「どのようにしたら魚たちに食べられなくてすむでしょうか?」屈原はいった。

「ご飯を葉に包んでとがった角のある形にすれば、魚達はそれを見て菱の実だとおもい、食べることはないとおもう」翌年の端午節に、ひとびとはご飯をそのとおりにして河に投げた。しかし、端午節が過ぎてから、屈原が又、夢に現れていった。

 「かなり食べることが出来たけど、魚達にも随分食べられてしまった。」と
 「何か良い方法はありませんか?」と人々はたづねた。
 「ある。チマキを投げ込む船に竜の印をつけておけばいい。魚たちは竜の手下だから、そのときに鼓を鳴らし角笛を吹き、櫂を動かせば、竜王が送ってよこしたものだろうと、思って横取りはしないだろう」。

この時から端午節にちまきを作り、竜船をこぐ習しが生まれ、これが屈原の故里・楽平里から、全国に、古代から今日に伝わっている。

屈原は楚においては、鹿児島人が西郷隆盛に抱くような人物であろうか。従って多くの伝説が他にも残っている。屈原が誕生した阮帰に伝わる伝説をもう一つ紹介しよう。屈原が汨羅江に身をなげると、一匹の大魚が洞庭湖をでて河をさかのぼり、屈原死体を阮帰に背負い帰った。又、阮帰の名前も屈原に由来するとの伝説もある。

屈原は讒言により楚王に放逐されたが、その時、屈原の阮がわざわざ屈原に会いにきたので阮帰という名前がついた、と

憂国の詩人・屈原の詩とはどんな詩なんだろう?李白や杜甫の詩はよく書面でもお馴染みだけど、屈原の詩は余り見ない。詩自体を紹介しても、難しくて字体から意味がわかり難いので意訳した有名な詩を紹介したい。

九章の中の「橘頌」について。「橘頌」は強い思想性を備えているだけでなく、その擬人化した芸術的手法は新鮮であり、中国における詠物詩中の範といわれている。

・・・・・・橘は葉が緑で、花が白い、実は丸く香しい。
形は美しく、人々に恵みをもたらす。しかし、枝には棘があり、頑強な気性をもっている。侮ることを許さず。 他人の言いなりにはならない。
 楚は今にも秦に滅ぼされようとしている。
 今、楚が必要なのは、純真なこと柑橘のごとき新風である。
 徳を重んじ,無私になり、寄せる荒波に押し流されず。秦と最後まで戦う精神こそ必要である。と   その憤りをこめて「橘頌」を書いた。

黄 鶴 楼

ホァン ホゥ   ロゥ

黄鶴楼については、同行した菊地氏から詳しいエッセイが届いた。若干の訂正を勝手に加えさせてもらい紹介させて頂く。

黄鶴楼伝説

武漢(ウーハン)は長江と、そこに注ぎ込む漢水の二つの川の合流地点に開けた湖北省の省都である。もともとは武昌、漢口、漢陽の三つの街、いわゆる武漢三鎮であり、現在の市の中心は漢口になる。

 武漢市は古くから交通の要衡として栄え、そのためたびたび戦場となった歴史がある。三国時代に建設されたと言われ唐代の詩人・李白をはじめ多くの詩人に詠われた黄鶴楼は

武漢市の長江を望む丘の上に五層の威容を誇っている。李白の詩「故人西のかた・・・・」

にも詠まれた名高い楼閣で、南昌の膝王閣
岳陽の岳陽楼と並び「江南三大名楼」と呼ばれて、訪れる観光客の絶え間がない。

三国時代に呉の孫権に創建されたと言われているこの楼閣も、度重なる戦火に焼失し、現代のものは宗代の姿をモデルに1985年に再建された。

李白の時代に思いを馳せるため、あえてエレベーターには乗らず、階段を上ることにした。

実の所は、エレベーターが故障だったことも幸いしたが、足に自信のない方には残念だったに違いない。一気にてっぺんまでというわけにはいかず、途中のフロアの李白の詩(額に納められてある)などを読みながらビルの立ち並ぶ外の風景を眺める。

時代の大きな流れを一瞬のうちに変えたような錯覚に襲われた。

楼閣の一番高い所まで上ると市内を一望でき、北側のまわると長江が緩やかに流れていた。  現地案内人の蔡さんが、「黄鶴楼」にまつわる次のような伝説を披露してくれた。

 昔々、長江のほとりに貧しい一人の青年が、酒場を開き、細々と暮らしていた。
 その酒場はほとんど客もなく、一日に一人か二人の客があれば上々で、清貧を絵に書いたような毎日を送っていた。
 と、ある日、ボロボロの衣服をまとった老人が現れ、「自分は、全く金を持ち合わせていない。お腹が空いているので、一杯のお酒と,食物を恵んで欲しい。」と頼んだところ、気のいい青年は快くお酒を提供し、料理を作って老人にふるまった。

 老人は,さも美味そうに料理を味わい、青年のすすめる酒を飲み干し、満足して帰っていった。 ところが、翌日も、その翌日も「お金が全くない、酒と食事を恵んで欲しい」と頼んだ。 青年は請われるままに、毎日毎日、酒と食物を提供し続けた。

 やがて一年が過ぎる頃、いつものように酒と食物を食べ終えると、老人は言った。

[永い間大変お世話になりました。このたび遠くへ行くことになったので、そのお礼に、ささやかな物を差し上げたい。」そう言うと、やおら他の客が捨てたゴミ袋の中からミカンを拾い、その汁で壁に鶴の絵を描いた。そして言った。 
 「もし貴方が、何か困ったことがあったら、この鶴に三度手をたたきなさい。」「この鶴がきっと貴方を助けてくれるだろう。」そう言って老人は立ち去った。

 青年は、ときどき壁に落書きされた鶴をながめながら、老人の話など、さして気にもせず、相変わらず、ほそぼそと、少ない客を相手に酒場を続ける日々が続いた。

ある雨の降る夕暮れ、全く客もなく沈んでいたとき、ふと壁に描いた鶴のことを思い出した。青年は鶴に向かって三度手をたたいてみた。するとどうだろう、

 金色の鶴が壁から抜け出して、羽を広げて見事に舞をはじめ、しばらく舞うとまた壁の落書きに収まった。 驚いた青年は
 「あの老人はやはり只者ではない,仙人かもしれない。」「よし、これからこの鶴を使って酒場を繁盛させよう」と思った。
 やがて、このことは大評判になり、青年は巨万の富を築いてしまった。

 ある日、老人が再びやってきて「あのときのお礼は十分した。もういいだろう。私は天に戻らなければならない。」そう言うと、金色の鶴に乗って飛び去ってしまった。

 青年はこれを記念して、出来るだけ仙人に近づけるよう小高い蛇山に「黄鶴楼」を築いたという。

黄鶴楼の正面には大きな鶴の彫像が羽を広げて観光客を迎える。伝説を聞き終えた僕は、鶴に向かって三度、手をたたいてみた。勿論、鶴の舞は拝めなかった。かわりに、二人の見習いガイドが横で微笑んでくれた

東 湖

東 湖はピーカン氏が
いみじくも言ったように湖と言うより海に見えた。はるか向こうに桜島の
ような山がかすんで見えた。暇があるとマイボートで釣りに出かけるピーカン氏が「これは錦江湾だ」と言ったのがよく分る。

東湖を見ていると、今から35年前の、
あの武漢事件を思い出す。文化大革命の嵐の真っ只中だった。
1967年7月14日未明、毛沢東を乗せた専用列車は武漢駅へ向かっていた。

武漢では、毛沢東の文化大革命を担う「真の革命派」をめぐって二つの勢力が流血の対決を続けていた。六日後、武漢一帯はこの二つの組織の内乱状態に陥った。7:20事件と呼ばれる武漢事件の勃発である。

 8201部隊と林彪派の「工人総部」との銃撃戦となり血で血を洗う衝突が夜を徹して展開された。という。戦闘は毛主席の滞在している東湖賓館に迫った。

急遽、周恩来は毛沢東を救い出す為に飛行機で武漢へ飛んだ。・・・・・とまあ、こんなノンフィクション小説・産経新聞社の出した「毛沢東秘録」を思い出した。

何故か.この地は僕の歴史好きを駆り立ててくれる地である。
およそ90年前に遡るとこの地はこんな歴史のターニングポイントでもあった。

 1911年(辛亥)10月10日、武昌に司令部をおく清朝の新軍の下士官や兵士が決起した武昌蜂起が発端となった辛亥事件により、翌12年一月一日に孫文を臨時大統領とする中華民国が成立、清朝の崩壊につながった。

そんな歴史の世界を思い出しながら僕等は恐らく今回の旅では最後の箱物見学となる「湖北省博物館」をたづねた。

終  章

上海に着いたのは予定の時刻を過ぎていたように思う。
上海はたびたび来ているというより中国旅行のたびに立ち寄る街なのであまり書きたいことは無い。でも、いつかじっくり上海の魅力を味わってみたいと思う。

今回は「三峡・二度と見ることの出来ない風景を訪ねる旅」ということで綴って見た。

最初のトーンからすれば武漢編はかなり硬派の文章になり、泊まった五つ星ホテル・シャングリラでのシャウジョ按摩との中文会話ストーリーもカットしてしまったけど、会話レッスンは健在だったことは報告しておこう。

旅は連れというか、相棒(今回はピーカン氏)との共有する思い出、それに自分自身の秘めた想い(肌でどう感じるか)、の二つである。といつも思う。

今回の旅も、ただの一度として、嫌な思い、心の波の騒いだこと、思い出したくないこと、・・・それら、すべての負の思いがなかった。楽しい旅だった。

さて、A4紙にすると40ページからなる、だらだら書き綴った「三峡クルーズ紀行」の最後に8日間僕達に同行してくれたガイドの蔡さんの説明してくれたこれからの「三峡・長江の未来」を記して終わりとしたい。

・・・・・・杜甫が二年近く住み、李白が三度訪れた三峡の未来(7年先)は・・・・・・

下流から船でさかのぼってくれば、白雲たなびく万山のなかに、コンクリートの大ダムがたちはだかるだろう。峰峰が屏風のように並び、広大な水面は何処までも青い。今までに無い湖の島々や岬があらわれるだろう。

初夏には百花咲き乱れ、岸辺は緑の木々で美しい。観光客のための多くの竜船が浮かび、人々は湖辺のホテルに泊まり、湖の夜景をながめる。西の空が赤く染まり、さざなみがきらめき、素晴らしい眺めとなるだろう。夏が来ると、ここは絶好の避暑地となる。湖辺には水泳場が出来、湖面には遊覧船、岸辺には花々が咲き乱れるだろう。

車を駆って発電所を見学するなら、高速エレベーターが人々を水面下の「竜宮」にいざなうだろう。水位が高まった為、湖面が開けた感じで、雲のかかった神女峰は百メートル以上ある石段を降りて観光客を迎えに来たかのようである。

雄・険・奇・幽の四文字でだいひょうされる三峡の風光は更に美しくなり、世界の人々の憧れの地となるだろう・・・・・・・・と。      再見!!!