MY Memory RooT

マイ メモリィ ルーツ

1955(昭和30・4)~1958(昭和33年3)

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玉龍高等学校に入学したのは昭和30年4月である。高校時代の記憶をたどる前に学校生活をはずれて今一度自分自身の内面というか?
現在の自分に培われたもの自分のルーツみたいなものを掘り下げてみたくなりました。
しばらくの間、校門は未だ開きません。あしからず。

長田中学校はまだ木造校舎だった。正面右端が正門
その隣校舎の手前から2番目が3年の時の教室。


僕の中学2年から高校2年までの4年間はまさに映画と音楽(A&V)のMIX漬けだった。

不朽の映画音楽もRockの名曲も、名画の数々も相次いでこの期間に生まれている。グレンミラー物語やベニーグッドマン物語などの音楽映画、それから続くモダンジャズの数々も、名曲と共に今に甦ってくる。 そんな恵まれた時期に僕の青春期はあった。

シティボーイを自認していた僕らはその中にどっぷり浸かっていたといえる。長田中学校時代、映画鑑賞は確か、禁止だったように憶えているけど。洋画館は今のタカプラ前に一軒、少し先の今のディズニーグッズを売っている辺りに日東劇場(イワサキ)があり、それとピラモールの先南国タクシー前にセントラル劇場、もう一軒、文旦堂の前といってもその文旦堂が今は無いけど、まあ、分かる人だけでいいとして、たしか国際劇場という名前だったと思う。名前の割には小さな劇場で入場料も安かったと思う。

日東劇場とセントラルが封切館だった。そこで、思いつくままに、少しの年代のずれは勘弁して貰うとして記憶の海へ潜れる今のうちに書き残しておきたくなった。

腰抜け二挺拳銃
ボブ・ホープ
主題歌:ボtンとリボン

シネマスコープ第一作
「聖衣」底抜けコンビ

昭和27年(1952)から28年(1953)

僕の心に残るナンバーワンは先にも書いた通り、・・・・・「シェーン」である。これよりで2年ほど前封切ら、ボブ・ホープの「腰抜け二挺拳銃」そして、その挿入音楽でアカデミー音楽賞をとった(ボタンとリボン)以来の僕の好みのポピュラーミュージックである。

黒装束のガンマンとの決闘を終えアラン・ラッドが開拓者一家に別れを告げ、馬に跨り去っていく、そのうしろから引き止める少年の声が「シェーン!カムバック!・・」

そしてしずかに、ゆっくりと遠くから聞こえてくる名曲(遥かなる山の呼び声)

雪村いづみの公演が中央公民館で翌年にあった。僕は彼女も好きだったが彼女の唄うこの歌を聴きたくて見に行った。

僕の見た初めての生公演だった。

この年に見に行った映画を列記すると、

●真昼の決闘  ゲーリークーパー  主題歌:ハイヌーン

●禁じられた遊び  主題歌:アントンカラスのチター演奏

●聖衣

●恐怖の報酬

●コルト45  ランドルフ・スコット

ジェームス・ディーン

天文館に「テレビ喫茶」が誕生したのもこの頃だった。やがて鹿児島では初のジュークボックスがここに設置され、EPレコードを10円入れると1曲聴け、結構通った。此処も学校では禁止区域だったと思う。

EPレコードが出たついでにレコードについて寄り道してみよう。EP盤はレコードの回転数が1分間に45回転する。

今のCD盤ぐらいの大きさで、それまでの78回転のSP盤に比べると重さも大きさも随分違ったし、挿入曲数も4曲と倍入っていた。

値段は1枚300円だったと思う。プレーヤーも切り替えつきに買い換えないといけないので家庭ではそう簡単には持てなかった。

また後にLP盤なる超優れものの登場が近づいており、今でいうオーディオ業界の第一期変革期とも云えた。何しろ、LP盤は片面で6曲・25分ぐらいそのまま聴ける垂涎ものだった。当然、僕等が買えるしろものではなかった。

もっともLPの登場はこのあと2年先になるのだが。僕等の高校時代はこのLPを聴かせてくれる純喫茶という名のレコード喫茶が沢山あった。またその話は後にしよう。

その頃、ラジオでS盤アワーというのがあった。その後のL盤アワーと記憶がごちや混ぜになっているが、テーマ曲がマンボ№5かエル・マンボの方がL盤アワーだったと思う。すると、こちらはこれまた2年程時代がさがる昭和30年頃になる。鹿児島の民放では番組が無く東京の文化放送か日本放送のバンドをキャッチして聴いていた。その日の天気によってラジオのチューニングが合わず音楽を聴く環境はとても悪かった。

まあ、いづれにしてもよく聴いた。そして、これらの番組で僕はいつも新曲をキャッチした。トィドルディもjust・walking・in・the・rayもsinging・the・blues.も。

気に入った曲が十字屋に入ってくるのは何日も後だったところを見ると放送局は輸入盤をかけていたのだろうか。

早速、音楽喫茶に行っては、そこのマスターも知らない新曲を店員の娘に「????って曲未だ入ってません?」通ぶって聞くものだった。こちらはシティボーイぶっていたけど、「きざな若造。」と思われていたのかも知れない。

そしてあるとき今までとは全く違う、強い衝撃をうけた曲が(ロック・アラウンド・ザ・クロック)と(シェイク・ラッツ・アンド・ロール・ワルツ)だった。

テレビ喫茶から話がそれてしまったけど、翌、昭和29年(1954)中学3年

BB

●グレンミラー物語 ジェームススチュアート インザムード

●道        ジュリエッタマシーナ  ジェルソミーナ

●ローマの休日   オードリィヘプバーン

●ベラクルス    クーパーとBランカスターの決闘シーン

E・プレスリー

やがて、次の年昭和30年(1955)中3~高校1年、そして翌年へは今振り返れば映画&ミュージックシーンとしてはとんでもない?格好よくいえばエポックメーキング(画期的な)転換期といえる。

●ベニーグッドマン物語     スィングジャズ到来

●マンボ・ブーム     .   ペレプラ・マンボとダンスの大流行

●エデンの東          ジェームス・ディーン

●素直な悪女ブリジッド・バルドー フランス映画界・セクシーガール

●王様と私          ユル・ブリンナー  スキンヘッド

●友情ある説得   アンソニーパーキンス (月影のなぎさ)

●十戒             スペクタクル映画の決定版

●歌謡曲ブーム   「おんな船頭唄」三橋美智也デビュー
                  『別れの一本杉』春日八郎

以上、30年を境にその前後年の音楽&映画シーンを思い出してみました。

映画のスクリーンがシネマスコープという名の、今までの倍ぐらい横長大画面になり、最新作は宣伝ポスターに必ず画面イラストでシネマコープのマークが付いていた。勿論、「エデンの東」もシネマスコープ超大作とうたっていた。

モノクロームの小さな黄金分割画面、そして、決まりきった伝統的手法の映画作りが終焉を迎え、新しい手法がハード面、ソフト面の両面で同時に進行しつつある時期であったといえる。

当然のことながら監督やスターたちの世代交代は世界的な規模で行われようとしていた。

日本における日活映画・中平 康監督・スター石原裕次郎の登場もフランス・バルドー・のデビューも、ジェームス・ディーンの登場も決して意外性の出現ではなく出るべくして出てきた必然性の賜物であったといえよう。

僕たちの周囲を眺めてみても同じことが言えた。木造の建物がモルタルや鉄筋の建て替えられていった。長田中学校はまだ木造だったけど、新らしい玉龍高校はモルタル建物だった。赤い屋根瓦が美しかった。

3年2組 上村教室  卒業写真

・・・・・・街からヒラキの屋根は段々消えていきつつあった。

29年に襲ったルース台風のあと、街のあちこちで見たヒラキの散在とポッカリあいた

あちこちの家の屋根痕は一つの時代の区切りとして貴重な僕の記憶の一つとなっている。

この時期、昭和30年~数年、僕の中学三年から高校三年の間とは、物質面の生活水準が年々目を見張るように向上しつつある時期だった。1956年の経済白書に「もはや戦後でえはない」と記された年だった。

難しい話から近辺の世界に話をもどすと、シティボーイの僕らは今考えてみると実に不可思議なフアン感覚を持っていたことか。ディーンが好き、パーキンスが好き、バルドーが好き、プレスリーが好き、裕次郎が大好き、中村錦之助フアンで、三橋美智也の玄海船歌を唄いながら、小坂一也のハートブレークホテルやプレスリーのラブミーテンダーを口ずさむ。もう何でもかんでも来るものは拒まずのノンポリ学生だった。

それから、30年ぐらい、つまりかなり近い過去まではこの頃の影響を自分の体内に宿していたといえる。

その方面のプロの道には進まなかったけれど、楽器にも、演奏にも、下手と分かっていながらシンガーもどきも体験した。

また、大学時代はモダンジャズにはまり、一方ではクラシックに傾倒して何十枚のLPを買ったことか。また、知人に全集を借りてオープンテープ20巻に一ヶ月がかりで録音させてもらったけど、今になっても聴き返していない。

それより何十年も使わないまでいる僕のデッキが正常に回ってくれるか?分からない。

オーディオ機器にもはまった、JBLスピーカーからアルテックディグ、ボーズのスピーカー、コントロールアンプはマッキントッシュ、パワーはマークレビンソンとマランツ510そしてフォノモーターはマイクロのMD1000、トーンアームはフィデリティリサーチ?カートリッジはシュアⅢ、デンオンDL103、MCがどうの、MMがどうのとか、デッキはアカイの2トラサンパチにカセットはナカミチと、もうバラバラ状態。

、ひと時はプレーヤーや曲のよさはそっちのけで、録音状況の優劣差でレコード漁りをした頃があった。買ったレコードの説明書き通りのサウンドが僕の愛機から出てくれるかどうかを必死でチェックしたものだ。???

それから6年後2組有志同窓会にて

男:左から古市・市来・有村 大石・橋口・米重・浜崎定博  田端

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今でも持ってるLP盤ディスク200枚・・そして、めったに聴かなくなってしまったけど、今でもJBL4333はいい音を出してくれる。

いろいろ後になって現れてきた僕の趣好の数々は、そして、それらの基礎は、この昭和30年頃のAV(オーディオ&ヴィジュアル)の体験が色濃く反映しているに違いない、と強く僕は確信している。