玉龍高等学校その後

1955年~1958年(昭和30年~33年・4月)

上:有楽町の日劇
下:第一回ウエスタンカーニバル

和製ポップスという名前が登場して、外国のヒット曲のカバーを唄う歌手やバンドが続々と雨後の竹の子のように出現したのもこの頃だった。

小坂一也とワゴンマスターズはカウボーイハットにフィドロ(バイオリンの小さいもの)と言う楽器やバンジョウーなどを加えたウエスタン(カントリー)バンドだったが、そのうち、ロックンロールとカントリーのヒルビリーを合成したロカビリーバンドの出現により日本のミュージックシーンは一気にスパークして一種の社会現象化した。

ウエスタンカーニバルの第一回目の開催をKは東京で迎えた。

1958年3月、Kくんは高校の卒業式に出た記憶はない。

Kは受験を名目に、2月早々に独りで上京していた。

東京駅でKを迎えてくれたのは岩元 学先輩だった。とてもやさしく、お洒落で格好よく、Kの一番話しやすい、頼れる先輩だった。

38時間前に鹿児島駅を出た寝台急行霧島は品川駅を通り過ぎた。

・・・・数分後に、東京駅に待っているマー坊の笑顔が浮かんだ。

有楽町駅を急行・霧島が通過したとき・・・・・・・「僕は東京に来たんだ。」とKは思った。東京で知っている地名の一つだった。少し前、低音の魅力で売り出した元ジャズシンガーのフランク永井が唄って大ヒットした・・・・・・「有楽町で逢いましょう」が重なった。

Kはクリーム色の、亀甲屋で買った、お気に入りのダスターコートを着て東京駅のホームに降りた。

・・・・・それから、中央線に乗り換え新宿に向かった。

「神田」「お茶の水」「後楽園」・・・これらの駅を通り過ぎる度に、活字や映画で理解していた東京がいま現実にあるのだ。と奇妙な気持ちだった。

人は人それぞれの感性があるので、何も考えることなく今(という時間トキ)を過ぎる人もあれば、Kみたいにトキに想いを入れ込む者もいる。

立ったまま通り過ぎる駅をkはその時、どんな感慨で眺めていたのだろうか

その日はそのまま新宿・歌舞伎町に連れて行かれた。兄の下宿先が埼玉県の成増だったので

・・・・・・「K坊、今日はもう遅いから新宿に泊まろう。」
      「今からスケートすべりに行って、飯でも食うが・・・」

マー坊はKの大きな旅行かばんを自分で持って「迷子になんなよ!」というと夕方前の歌舞伎町をコマの方はぐんぐん歩いていった。

その晩どこに泊まったかは覚えてないけど、かなりショッキングな初めての東京初日だったことだけはよく覚えている。

1958年の春に第一回のウエスタンカーニバルは日劇で開かれた。

Kは銀座のテネシーには行かなかったけど新宿のACBは結構よく行った。

小坂一也はスチールに原田 実、ギターに寺本圭一、かまやつひろしも参加していた。あと、池袋に「ドラム」があった。これらの喫茶店のことを何故か「ジャズ喫茶」とよんでいた。

第一回目のウエスタン・カーニバルの主役はロカビリー三人男とよばれた

平尾昌章(昭和16年生まれ)とオールスターズワゴン

58年1「リトルダーリン」でデビュー翌2月、第一回のウエスタンカーニバル出演 7月にオリジナル「星は何でも知っている」が大ヒット。

山下敬二郎(昭和14年生)とジェットコースターズ
      柳家金語楼の息子。ヒット曲「バルコニーに座って」・ 

小坂一也   ジェリー藤尾

ミッキーカーチス(昭和13年)とクレージーウエスト
            「月影のなぎさ」でデビュー

三人ともニールセダカの「恋の片道切符」ポールアンカの「ダイアナ」

「君は我が運命」「クレージーラブ」を日本語訳で競演して若者にブレイク。

彼らの年齢はKと同じか、一つ下か上だった。

翌年の第二回目は井上ひろし・水原弘・守屋 浩の三人ひろしが人気を博した。三人の中に「かまやつひろし」を加える人がいるがそうなると四人ひろしになってしまう。

守屋 浩    水原 弘

その年(1958)の夏にはKは鹿児島のロカビリー歌手もどきを演じていた。
あの頃のしばらくは、間違いなく現実ではあったのだが、今、思い出すと、実に、Kのこれまでの人生の中では、異質な体験の半年といえる。

なんでも経験したい。・・・・と考えるKの人生哲学からすれば、うなずけないこともない、と今は思えるのだけど。

飯田久彦     井上ひろし

帰鹿した家の二階(つまり、Kが半年前まで受験勉強をしていた部屋)から何やら生のスチールギターの音がアンプを通して聞こえてくるではないか?

階段を上がると一人のやせてクラシックなメガネをかけた男がウェスタンの名曲「サンアントニオ・ローズ」を弾いていた。初めて目の前で見たスチールギターも珍しかったけど、弾いてる男の雰囲気があまりに楽器と不似合いだったことのほうがびっくりした。男の風貌は痩せて色白でイメージからすれば作家、芥川龍之介といった感じだった。

鹿児島大学・医学部3年・細川??さんとの初めての出合いである。

佐々木 功

あとで知ったのだが二階の二部屋は父が二人の大学生に部屋を貸したんだそうだ。そして、もう一部屋をKが使って、その隣の部屋、一応、洋間ということになっている板の間の部屋が、その後、Kの名づけたカントリー&ハワイアンバンド「サニーウエスト」の練習室となった。

バンマスの細川さんは、もともとがハワイアン中心のレパートリーが主だったので、ウクレレを長野さん、リードギターを経済大学の福留さん、後、Kがボーカルとコードチェンジを余りしない、つまり、C、F,G,程度のコードですむサイドギターを担当してステージに上がっていた。

Kたちの最初のステージは西鹿児島駅の近く、今のダイエーのあたりにあったダイイチビル4階建ての2階のレストラン喫茶だった。1日おきの午後5時から7時~8時まで、1ヶ月というのが、細川さんの請けてきた条件だった。

ワンステージは大体一時間少しで、それを2回こなすことになっていた。メンバーは5人から6人、それだけ乗るとステージが一杯になってしまう、狭いステージだった。

初日は緊張した。細川さんと二人で見つけてきた茶の縦じまの長袖の綿シャツをユニフォームにした。ステージのオプニング曲を何にしようかと話しあったが細川さんの一言で「サンアントニオ・ローズ」に決まった。

細川さんはハワイアンのメカナニアオカウポにしたかったらしいが、それは皆が反対したので決まらなかった。ということで、表向きは小坂和也とワゴンエースのコピーといった感じだった。

初日はさすがに胸がドキドキした。

テーマ曲「サンアン・・・」が流れ出した。あの物静かで、決して慌てる事も、あがることも無縁そうな細川さんが、3フレーズ目のキーポジションを半音間違えてしまった。皆、一瞬ハッとしたが、細川さんはちょっと身体を沈めただけで首から上は、いつもと変わらぬ様子で弾き続けた。

レパートリーの大半はそれでもハワイアン曲が占めていた。ワンステージにKの唄う曲は3~5曲ぐらいだった。その3倍ぐらいしか持ち歌がなかった。

Kの知っている曲はあったけれどバンドとリハーサルをしてないので仕方が無かった。ほとんどがプレスリーナンバーかヒットパレードの人気ナンバーばかりだった。唄った記憶のあるタイトルを思い出してみると、

・・・・・・・・・・・・・・・・・「ビバッパルーラ」「ママギター」「思い出の指輪」「リトルダーリン」「北風」「ユー チーティン ハート」「カウライジャ」「ユーアーマイサンシャイン」「ハウンドドッグ」「ラブミーテンダー」「オーマイダーリン クレメンタイン」「星は何でも知っている」「ダイアナ」「ユーアーマイ デストニー」「恋の片道切符」「オーキャロル」・・・・・・・・・・・・・・・若干のミスもあるかもしれないけど、こんな感じだろうか?

一番、みんなでリハーサルを重ねたのが「リトル・ダーリン」だった。Kの担当はクラベスとメインボーカルだったが、コーラス部分と演奏との噛み合わせがむづかしくステージでこの曲になるといつもドキドキした。聴いているお客さんの受けは意に反してとても好評で意外にも、リクエストはいつもトップだった。後半のステージは大体、前半のリクエストを中心に曲構成をした。

お客さんはだんだん日を重ねるごとに多くなってきた。若い高校生も聞きにくるようになり、フアンらしき層も登場して、メンバーも張り合いが出てきた。

Kの持ち歌をステージにあげる順序は次のようだった。まず、十字屋で元曲を買ってくる。EP盤をポータブル電蓄で聴き、少しずつ原語をカタカナに直して覚えていく、決して正式の英語では覚えず唄っている歌手の唄い方をコピーする。従って、意味は全く分からない場合が多い。スローナンバーはよくわかるけど。

細川さんが次にレコードを聴いてスチールでメロディをコピーする。次に僕の音に合わせてコードを決めていく。細川サウンドに編曲されたプレスリーの新曲「思い出の指輪」がこうして出来あがっていく、と言ったあんばいである。

一番苦労して憶えた歌はエディコクランの「ママギター」だった。

ヘーイママ、ママギター、ヘイヘ、ママギター~~と、最初はゆっくり唄いだすけどサビになると、とんでもないことになる。

・・・・・・・・・コトバを書き写すのにプレーヤーのピックアップを何十回上げ下ろししたことだろうか。

プレーヤーに33回転モード切替が付いていたなら、デレぃ、つまりゆっくり回して書き留めることも出来たのに、それもないぼろプレーヤーだった。

その苦労の記憶こそが、この時代の現実を証明してくれている。

・・・・そのうち、Kにも個人フアンらしき存在が現れてきた。毎回リクエストの文字と曲名が同じでメンバー(皆、ぼくより年上)にからかわれるようになった。ちょつとラブレターのような文面のリクエストカードも見かけるようになり、ステージで唄いながら、それらしき人のいるテーブルを探すこともあった。

後で聞いたら私立女子高でKたちの「サニーウエスト」が噂になっていたらしい。

その頃、鹿児島にはKたちのバンド以外に、それらしき若いバンドがなかった。ライブバンドといえば森永会館か、あとはエンパイヤ、オペラハウスもしくはダンスホールに少しあったていどで、それもバンドそのものを見てもらうといった感じではなかった。そういった意味では、Kたちのアマチュアカントリーバンド「サニーウエスト」は鹿児島の若者バンドの先駆者と言えたのかも知れない。

「サニーウエスト」の次の演奏会場は天文館の森永会館ステージに移った。

今のジースリー通りの中ほどにある森永パチンコのあとである。

ここは一回目の西駅ダイイチ会館よりずっと大きかった。しかし、雰囲気から、ロックは合わなかった。客層がおとなしく、それこそ、細川さんのマヒナムードがぴったりで、Kも不本意ながらハワイアンナンバー中心に、ウクレレが主体になっていった。

親友の有村が文化通りのクラブ「グランドキャニオン」でバーテンをしていたので、Kは演奏の後は有村のところによく立ち寄った。

この頃から後、2~3年が天文館の夜とKの一番なじんだニアミスの時期だった。

自分でお金を使って飲みに行くというパターンは、したがって、あとの人生をも含め余り記憶にない。エンパイヤの横の筋を入った中頃にひときわ目立ったデザインのビルが建っていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・クラブ「シャトー」という名前だった。

しばらくそのクラブで歌を唄ってた頃がある。演奏場所は螺旋階段の上のほうで客フロアははるか下の方だった。ドラムやサックスも入った本格的クラブバンドだった。「ハウンドドッグ」やハンクウイリアムスのカントリーミュージツクを唄っていた記憶がある。

その時は細川さんとの関係ではなく、ギターリストの福留先輩の仲間(経済大学のユーカリバンド)の丹羽さん達との紹介だったと思う。

Kのシンガーもどきの体験記憶はこんなところだろうか?