風化しないうちに書き留めておきたいこと・・・

MY MEMORY SINCE 1939

鹿児島市立大竜小学校 (昭和21年4月~27年3月)
鹿児島市立長田中学校 (昭和27年4月~30年3月)
鹿児島市立玉龍高等学校(昭和30年4月~33年3月)
立教大学・文学部(日本文学科)33年4月~38年3月)
真野高等美容学校(夜間部)  37年4月~39年3月)
石渡 潔美容室・浅草橋店
代々木上原・ロザンヌ美容室
鹿児島市・美千代美容室
鹿児島市・ラ・ヴィ

高校1年の春。自宅の横で、、帽子が未だ新しい。

僕、3歳ごろでしょうか。阿久根に母の妹・志津子伯母さんの結婚式に母、兄、3人で里帰りしたとき、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に写した写真。

母・カスミと兄・健二。

この頃、無性に、過去を振り返ってみたい気持ちになります。

そのうち、気力がなくなり、過去を思い出すのさえ億劫になる時が必ず来るに違いない、そんな確証に近い予感がするからです。

今なら未だ思い出せる、その思い出を記録してみたい。出来ることなら、思い出すだけじゃなく当時の空気や体感温度まで感じとってみたいと思うのです。

そのことは、とてもきつい、努力の要る仕事のように思われます。

もう既に風化してしまった、喪失の部分も沢山あるからです。

旧友達と会話が弾む時、自分だけ、昔話に参加できず、記憶の剥奪された部分の多さに驚かされます。

物心ついてから小学校低学年(3~4年生)頃までと、10代を二つに分け三つの時代の自分史をひも解いて見ましょう。いつかは?と思っていたことが愈々始まる、そんな胸のトキメキさえ感じています。

登場する人々は写真も固有名詞もまさにノンフィクションですが、

僕と時代を共有したことでご容赦願えれば幸いです。

はっきりとした記憶の始まりは、中国の北京から天津を経由してタンク港へとひた走る引揚げ列車の中の光景からである.

・・・・・・・ はるか彼方に地平線の見える大陸の荒野を汽車は走っていた。

30両編成ぐらいの長い貨物列車(青空)だった。夜陰に紛れて逃げるようにヤンチョ(人力車)に揺られ駅に着いてからの記憶は定かでない。

幼児期を過ごした北京の家の思い出も喪失に限りなく近い。中庭に大きな棗の木があったこと、外に来る行商のアメ細工売りの作る動物を見るのが楽しみだったことぐらい。

ふるさと,日本へ帰れることにホッとしながらも、片方では、過去も未来すらも、すべてを失ってしまった今の自分たちと 焼け野が原になってしまっているかも知れない自分たちの故郷を想う人びと。

そんな、いろいろな人々の、それぞれの思いを詰めて、列車は天津港を目指していた

満天の星空など眺める余裕もなく、夜になると夜露をしのぐ為、硬いテントの幌を車両の上に被せた。人も石炭も同じだった。 時折、遠くで銃のような音がしたり、動物の遠吠えなども聞こえた。

ギィーッと音がして、列車が突然、止まることがしばしばあった。

・・・・・・・ 突然声がして、人の降りる気配がする。

ザワザワと音がして、止まった汽車に物売りに来たのでだろうか、物売りが来たから列車が止まったのか、止まったから物売りが来たのか、もともと、止まるべき駅みたいな所だったのか、僕は覚えてはいない。.

覚えているのは、鶏の蒸したのを近くの大人の人が物売りから買ったのだろう。

・・・・・・ 「オイッ!坊や、食べないか?」と僕に、 手で裂いたもも肉の一部を渡してくれた。 僕はそれを 兄妹3人で、塩をつけて食べた。

その時の蒸したかしわの味は、今でも忘れることは出来ない。

かしわと言えば、どんな鶏料理よりも、裸のまま蒸して、何も付いていない、

そのままの肉に塩を付けて食べるのが一番好きである。

全く、なーんにも見えない東シナ海の海原を船は佐世保港を目指していた。 母に「危ないから上に、行ってはいけないよ」と言われていた。

でも上陸用舟艇のデッキから 僕は 海以外にな~んにも見えない 景色を何時間も眺めているのが大好きだった。

何を考え、何を思っていたのだろう。おそらくな~んにも考えてはいなかったに違いない。でも、あの風景は、今でも、僕の脳裏からけっして離れることはない。

DDTという殺虫剤を頭のてっぺんから足まで,まっ白に降りかけられた記憶は
残っている。

その後の記憶は阿久根の海浜(はまんこらと言っていた。)で、砂に潜った白い
カニをイリコ(煮干)でおびき寄せて捕まえて遊んだり、川でダンマエビを捕りをしたり・・家の近くの土手には大きなヘビがよくいた。僕は怖かったけど、近所のワンパク小僧は平気で尻尾を掴んで振り回していた。

祖父母の家の庭には、小さなわき池があって、朝、顔はその池で洗った。

水溜りのようなその池にはイモリもゲンゴロウもいた。

赤い色をした岩カニが石の間から何匹も出たり入ったりしていた。

ミズスマシも泳いでいた。僕はこの澄んだ池が大好きだった。

こうして書き起こしてみると まだまだ ,いろいろな事を覚えてるものである。

自分の人生の中でたとえ一年か一年半の期間だったかも知れないけど、小学校に入る前、阿久根の田園で過ごした日々は、とても、貴重な、実り多い時期だったように思う。

二つ上の兄は近くの小学校の二年生?かで、二つ下の妹は、何をして遊んでいたのか、本人に聞いて見ないと分からない。父はおそらく、鹿児島に仕事を見つけに行ってたのだろう。

子供だった僕はそんなことは、何にも知らなかったし、阿久根が何処にあるの
も、鹿児島という町の存在すら知らなかった。

実際のところ、戦争が終わって、日本という国が負けたことすら、知っていたのだろうか?僕は生まれ育ったふるさとも幼児期に可愛がってくれた親戚のおじさん、おばさん、そして近所の人々という環境がなかった。しかし、多かれ少なかれ引揚て来た子供らは同じ環境だったに違いない。

1946(昭和21年)4月大竜小学校へ入学

昭和21年(1946)の四月1日

僕は家から15分ぐらいの大龍小学校へ胸ふくらませて入学した。

僕の家は上町市場の前で文具屋をしていた。父は新聞記者だったので商売は初めてだったらしい。文具屋は紙とペンが商売道具だった父にふさわしい商売だったのかも知れない。どの時点で酒屋に転業したのかよく覚えていない。小学校の頃は文房具屋だったと思う。学校までの距離は15,6分というところだった。本当は10分位で登校出来る距離だったけど、五分の差は寄り道だった。

登校途中に、爆弾の落ちた跡に出来た水溜りのような池が沢山あった。

そこに飛んでくる、ジューボーイと呼んでいた黄緑色いトンボを朝から追いかけたり、

学校の周りの溝の乾いた土の中にいるオケラを捕まえたり教室まで時間がかかった。

ラジオから「鐘の鳴る丘」が初めて放送された年である。

「・・・緑の丘の赤い屋根、・・トンガリ帽子の時計台・・・鐘が・な・り・ま・す・キン・コン・カーン・・・メぇメェ 子やぎも泣いてます。・・・・」

学校には、未だ、まともな机もイスもなく、折りたたみの簡易イスを手に持って登校した。

勿論、ランドセルを負ぶった記憶は無い。

今、当時の集合写真を見ると、それぞれ思い思いの格好をしていて季節すら分からない。

帽子は皆持っていたのだろうか?半分は裸足だった。

場所は南州神社・日時は昭和23年(1948)大龍小学校2年生『9歳)担任は京田 徹夫先生・服は兵隊服である。平成9年8月・山形屋画廊にて油絵展を開催。50年?振りに再会。といっても覚えていらっしゃる筈はないけど嬉しかった。プロフィールに1925年生まれ。と書いてあったので、この時先生は23歳ということになる。僕は右端の前から4列目

ノートや鉛筆など未だ余りない時代だった。

クラスメートの中には、不自由してる生徒も多くいた。

僕は、うちの店に売ってる消しゴムや鉛筆をそんな生徒によく上げた。

そんな訳で、僕の周囲はけっこう賑やかだった。(三角の辺が横顔になっている
コーリン鉛筆が三菱より安かった)

マンガを描くのが好きで鞍馬天狗や紫頭巾は得意だった。

少年は3年生の時創刊された。「少年クラブ」はモット早かった。どちらにも好きな漫画があって、買うのに迷った。「少年」の方に江戸川乱歩の「怪人二十面相」があり、「少年クラブ」には樺島勝一のペン画があつた。

「少年活劇文庫」「少年画報」「少年クラブ」「少年」は愛読書だった。教科書より熱心に読んだ。倉金章介の「あんみつ姫」馬場のぼる「ポストくん」などの漫画から山川惣冶の「少年王者」小松崎 茂「宇宙科学もの」などペン画が好きだった。

店に売っていたGペンでよくペン画をかいて投書した。

3~4年生の頃までは漫画ばかり描いていた。東京の光文社に投稿して一回
だけ「少年」に掲載された。といっても「お友達欄」だけど。

年生までの教室での記憶は余りない。強いて言えば、学級壁新聞など作った記憶ぐらいだ。5,6年になると、ワルが多くなってきたせいか、先生に怒られた記憶が増えてきた。学校から帰ると大体二つのことが待っていた。

一つ目は紙芝居が上町市場の角にやって来る。

「おもしろブック」の目玉作品は何と言っても山川惣治の『少年王者』

「黄金バット」と「・・・千匹狸」が連続もので、見過ごす訳にはいかなかった。

たまにワルをして残されて遅くなったりして、いつもの場所が終わっていると、次の路地まで走って見に行った。水あめを二本の箸で回転させながら紙芝居に夢中だった。イカの足を醤油で焼いたのも美味しかった。3分の一は只見だった。

紙芝居が終わると次は「そろばん学校」が待っていた。

旧専売局跡に「赤塚ソロバン学校」はあった。上級者は大隈そろばんという今
流に言えばブランドものをもっていた。

なにやら、粉みたいなものをパタパタふりかけ、滑りを調整しているのを横目で
見ながら「ヨーシ、今に三級になったら僕も買ってもらおう。」と頑張ったけど果たせなかった。

実は、三級の試験には伝票計算というのがあって、左手で伝票の端を繰りながら玉を弾かなけばならず。僕は左利きの為ソロバンを左で弾いていた。つまり、右手で伝票が繰れないのである。でも大隈そろばんは欲しかった。

曽根さんという背の高い教師がいて一回だけ貸してくれた。

計算はしないで、人差し指で上段の五桁の玉を右から左へスーッと走らすと何とも言えない音がした。

重量感といい、玉切れといい品物で初めて欲しいと思ったのが「大隈そろばん」だった。

夏になると休みは祇園の州でうなぎをとって多賀山でターザンごっこをして遊んだ。

多賀山では竹鉄砲を作って打ち合いをしたり、祇園の洲では「うんつき」という竹の先に銛をつけ 反対側の先に自転車のチューブを裂いて作ったモリをかついで「琉球人松」から海に降り 渡りカニを捕った。僕たちは「じきじん松」と呼んでいた。

後年、美しかった一本松は松くい虫の犠牲になって碑だけが建てられた。

いでたちといえば、上はランニングに下は半ズボン、その下に「キンツリ」という海水パンツふんどしの合いの子のようなものを付けていた。足は裸足が定番だった。

稲荷川の踏切の前のアイスキャンデー屋でアイスボンボンかキャンデーをよく買った。あずきアイスは10円で他は5円か7円かだったと思う。店のおじさんが平面の冷凍庫をあけると一瞬吹き上がる冷煙を覗き込むのが好きだった。

僕たちは太陽で溶けて、所どころペースト状態になったアスファルトの上を飛び跳ねながら磯の一本松(琉球人松)へ向かった。たまには大きなボラを突くこともあつた。

5年生の頃はボーイスカウトが流行った。

僕は車町の金光教の建物の中にあった団体に早速入団した。

今でも覚えている言葉は「そなえよつねに」だけである。

何の訓練をしたのか殆ど覚えていない。強いて記憶を搾り出す、縄の結び方ぐらいか、ナ だけど、やさしいお兄さんが班長にいて、正月は松原神社にサーカスやお化け屋敷を見に連れて行ってくれた。「

父が「そういう人は気をつけないと危ないんですよ」と言ったのを覚えている。やさしい人が何故危ない人なのかサッパリ分からなかった。

ボーイスカウトでいちばん記憶にあるのは帽子のことだ。何年か経って試験に合格しないと、あの格好いいカウボーイハットは被れなかった。

僕たちは縦長の封筒の横を切り開いたようなGI帽子をチョコンと頭に載せ、先輩たちの頭にのったツつきの帽子を羨ましく眺めていた。

映画もよく見に行った。記憶にある映画ベストスリーは1位・大平原2位・シ
ーホーク3位・怪傑ゾロだ。勿論主演はエロール・フリン。

学校で海人草というお腹の虫を退治する薬を飲ませる日など学校をサボっ映画を見に行った。

家を出る時は「いってきまーす!」と嘘を言って、映画館に直行した。

何年生の時か覚えていないけど、いつものように知らん振りをして「ただいま!!・・・・」と家に帰ると、母が「クラスの赤瀬川さんという人が大石クンにといって連絡帖を届けに来たよ」まさか、僕が海人草が嫌いで学校をサボったなどとは母は思ってもいない筈。多分、忘れて帰ってきたと思っていたのかも知れない

西園校長先生

「・・・・・・・」、勿論、本当のことは言わなかった。

只、何と言って、誤魔化したのか全然覚えてはいない。余程落ち着いてウソ言ったのか、母の度量の方が勝っていたのか今は知る由もない。

でも、映画は本当によく見に行った。以来の人生で僕がいろいろな物に好奇心を持つ人間になった要因と言うか、原点というか、それは,多分に映画館と貸し本屋への通い詰めがあったように思う。

考えてみれば、当時、そうそうお金を持っていた筈はないし、どうやって映画館にもぐりこんでいたのだろうか?一つ覚えているのは子供(7歳以下は確か無料だった)になりすまし、先輩の背中に負んぶされて入り口を抜けた記憶がある。

その時は成功したけど繰り返した覚えがないところを見ると危なく失敗しかかったのかもしれない。

あの頃、映画館の周囲は板塀が多く一枚ぐらい板をはがして侵入したこともあったのかも知れない。

浪花節もよく聞いたものの一つである。

母が浪曲好きで一緒に大正会館などに付いて行った。

寿々木米若、木村若衛、天中軒雲月、春日井梅鴬・・・・その他、当時はラジオでものど自慢番組などで「壷坂霊源記」などは誰でも知っているヒット曲のようだった。

「・・妻は夫をいたわり・・つ、夫は妻にシタイ・・ツ・・ツ・ゥゥ・・頃は六月中の頃 ・・夏とはいえど、片田舎アァァァ」結構、ブームでもあったのかもしれない。

浪曲では、やはり平沢虎造の清水港の石松シリーズが一番良かった。

大政小政などに人気があり「飲みネエ 食いネエ お前さん江戸っ子だってネェ・・・・・」「そうよ,神田の生まれよ」と、よく真似したものである。

ラジオ番組で好きだったのは「二十の扉」、あのギィーッという扉の開く擬音は
今も耳に残っている。「とんち教室」などもいつも聞いていた。

・・・・石黒敬七さ~ん、大田黒モトオさ~ん、山本かじろうサン、渡辺紳一郎さん、藤浦 洸サーン(後は出てこない)

音楽番組では一番お気に入りは「川田晴久とダイナブラザース」だった。

「地球の上に~朝が来る その裏側は 夜だろう」当たり前の歌詞が、あの頃はたまらなかった。

♪「西の国ならヨーロッパ、東の国は東洋の~~」 と良く真似したものだった。何故か、高田浩吉の股旅演歌も良く真似して唄った。

「チャッキリチャッキリチャッキリナ~」と頭にハンカチを何故乗せてるのか分からず母に尋ねたが、「あれはオシゃレなのよ。」と母は答え、そのあとクスリと笑った。

母は浪花節が大好きだったが薩摩琵琶なるものも好きだったようだ。

浪曲はまだしもこの琵琶聞きに大正会館に付き合わされるのは苦手だった。お尻は痛いし、冬は寒いし、夏は暑いし、つまりエアコンが無いので季節がもろに身にしみる。

今でも、あのビョ~~ヨン、ビヨヨ~~ンという音は心地よくない響きとして
耳に残っている。

小学校5年、6年は持ち上がり(クラス替えなし、担任変わらず)だった。クラスメートなる存在が芽生えたのもこの頃が初めのような気がする。 教室の匂い、級友の顔などが色褪せずに残っている。

勉強も、いたずらも、淡い恋心も、そして米倉先生とのかずかずのバトルも風化することもない思い出なので、今回はあまり書き残すまい。

米倉ノリ先生は僕と同じ北京からの引揚げ者ということだった。

そのせいか、僕がいたずらをして叱られる度に「あんたは引揚げて来たのだからもっと一生懸命頑張らなければいかんたっよ。」と分かったような、分からないような叱り方をされたものだ。先生は僕に目を掛けてくださったのかもしれない。僕の方は「目を付けられた」と思っていたふしがある。

お仕置きを受ける理由はさまざまだったけれど方法は大体決まっていた。

一番多かったのが板の床に正座させられることだった。後に並んで立たされる
のは一番軽い刑であった。ソロバンで腕を叩かれるのも堪えたけれど何と言っ
ても一番痛かったのは竹定規30センチでの両腕叩きだった。中学に入ってか
ら国語の「にぎりめし先生」にやられた中指での鼻ハジキと双璧だった。

理科の教科書の解剖図に鉛筆で**を書いて一斉検閲でばつをうけたり、遠足前に配られたお菓子をその日に食べてしまって罰を受けたり、スカート覗きで捕まったり・・・・今思うとそんな程度のワルさだったように思う。

1952年(昭和27年)4月・長田中学校へ入学(有村文之・内和清・古里哲二・浜崎定博・福山浩洋)の五人の親友の名が浮かぶ。

左がわから岩井英一クン,宮下マサエサン,隣は緒方宗二くん、後の三つ編みは横川サン その隣は大平クン・・・・米倉先生とソロバンん時間」の光景。

大竜小学校へは歩いて15分ぐらいだったが、長田中学校は距離にすれば我が家からは等間隔ぐらいだった。坂がないのと、裏の、門のないところから校庭に闖入すると10分そこそこで教室に行けた。3年間、正門は下校時に天文館方面、正確にいうと有村の家に行く時だけ利用した。

さて、当時の時代背景をちょっと書いてみたい。

昭和27年

1月: ● 輸入ビルマ米から横変米が発見された。時々、白米の中に黄色いにが混じっていると「アッ!横変米じゃない?」『違うよ、これはビタミン米よ」そんな会話があった。

4月: ●日航・もく星号大島に墜落37名死亡
    ●君の名は』放送開始
5月: ●白井義男フライ級世界チャンピオンになる。相手はハワイのダド・マリノトレーナー、カーン氏も有名になる。
7月: ●羽田空港誕生 ヘルシンキオリンピック開催
    国際的には徐徐に独立して「保安隊」そして「警察予備隊」が出来やがて「自衛隊」
   へつががるスタートの年だった。
   電気冷蔵庫もこの年登場する。

昭和28年

1月 ●NHKでテレビ放送開始、吉田首相衆議院でバカヤローと発言
3月 ●スターリンの死
4月 ●ボストンマラソンで山田敬蔵優勝
   ●防衛大学誕生
6月 ●映画にワイドスクリーン登場
8月 ●民間テレビ放送開始
12月 ●奄美群島日本復帰
(キーワード)
アカ電話・ジェットコースター・立体映画・落下傘スタイル・真知子巻き・シェーン・禁じられた遊び・終着駅 さいざんす(トニー谷)マンボ

昭和29年

2月 ●モンローとディマジオ来日、シャープ兄弟と力動山・木村のタッグマッチ
3月 ●第五福竜丸、ビキニ沖で被災
9月 ●洞爺丸沈没1139名不明
11月 ●ゴジラ封切
12月 ●吉田内閣総辞職、鳩山内閣成立
(キーワード)
死の灰・ロマンスグレー・お富さん・オーマイパパ・笛吹童子・紅孔雀・中村金之助ローマの休日・オードリーヘップバーン・恐怖の報酬

昭和30年(中学3年~高校入学))

1月 ● シネラマ初公開
● トヨペットクラウン登場
7月 ● トニー谷の長男誘拐事件
8月 ● ソニーがトランジスターラジオを発売
(キーワード) 
電気釜・ボディービル・太陽族・ノイローゼ・ポロシャツ・アロハ・エデンの東
太陽の季節・月がとっても青いから ・しあわせの歌・神武景気

この写真は昭和30年の4~6月までの間(16歳?)
自宅の屋上、といっても、とても小さなスペースだったが、見晴らしはよかった。南洲神社下の江平さんの邸宅がよく見えた。と、云うのは 高2の時、彼女にデートの申し込みに行った渡辺クンが、「首尾よく、成功したら手を振るからナ、というので」、望遠鏡で眺めていた記憶があるからだ。むろん桜島も、山形屋も見えた。

暑い夏の夜は屋上にふとんを敷いて、星を眺めながら寝たりもした。コンクリートの床が少々痛かったけど。

初めてMyといえる本当のガールフレンド、マコちゃんと ふるえながら初めて唇を触れ合った場所も、そんな暑い夏の夜のこの場所だった。

この写真はとても大切な僕の中学2年の時の写真である。場所は今、中町ベルクの久保仏具店のあとである。当時、有村クンの家で東京パチンコという店の屋根の上である。後に見える山形屋の方角に道を隔てて美千代美容室があった。そこの娘ミチヨちゃん(当時名山小学校)が何と、今の僕の妻である。そして、今書いているこの場所はこれまた、何と!この場所のこちら隣の理容ホワイトの3階である。

古びた僕のアルバムに・・・有村君の家の屋根・夏休みの一コマ

29年8月9日ミゼットカメラで写すと記してあった。

左の有村文之くんは僕の中学時代の最大の朋友だった。学校の成績を除いたら、僕が彼に勝るものは何もなかった。

特にマラソンは長田中の代表選手だった。そのころ、大流行したローラースケートなど、見てて惚れ惚れしたものだ。

高校が違っても、一番の親友だった。

鹿児島高校に行ってから体を壊し、その頃、結構多かった肺結核を患い、あちこちの療養所を転々としていた。

市立病院で手術をし、城山麓の高岡病院に入院していた頃もよく見舞いに通った。

この病院には僕の高校の化学の先生で、通称、エビちゃんこと海老原先生も入院されていた。

高2の頃、僕の家に間借りしていた福留くんも結核に罹り、彼は重富の三船病院に療養していた。南風病院にも友人が入院治療していた。

結核病院は、だからよく見舞いに通ったものだ。

後年、大人になってから医者にレントゲンをとってもらったら「随分昔に貴方は肋膜か何かに罹っていますね。今は綺麗ですけど、痕があります」と言われた事がある。

もし、その当時引っ掛かって(陽性反応)が出てたら、僕も立派な療養生活者になっていたのかも知れない。

でも、そんな病院生活を通しても有村クンとの思い出は、太陽のように明るい、青春の記憶しかない。

それは、彼の性格から来てたのだろう。

人生の悩みとか家庭の悩みとか、愛の苦悩とか、難しい言語を要す会話など、彼との間には全く、記憶にない。

内 和清くんと高校に受かった年の春、磯でのスナップ。なんとなくカメラじゃなく進路を眺めているように見えるが、実際は単に気取って見せてるだけかもしれない

実際はその頃はそれなりに深刻な話もあったが、風化して今、おもいだせないだけかも知れない。

でも、どちらかと言えばお互いシティボーイのような関係だった、悩みも笑いの内だったのだ。

中学時代の僕らのキーワードと言えば、何だろう?いろいろあるけど、三つあげるとすると、パチンコ、ローラースケート、外車のタクシーというところかもしれない。

断っておくが、これは全くの私見である。自分が今浮かんでくるあの頃ということである。

いやぁ、それにしてもパチンコ屋は全盛でした。

今みたいな大型店じゃなくて、どちらかといえば、魚屋、八百屋、文具や、パチンコや、と云った感覚に近い感じかもしれない。

まあ、小売店よりは少し規模は大きかったかもしれない。

実は、我が友・文之クンの家は中町でパチンコ店をしていた。彼の家に週に4日は遊びに行ってたので、僕の中学時代とパチンコの、あのチ~ンジャラジャラ音は決して離れない。

儲かっていたのか、東京パチンコ店は西駅の郵便局の前に支店がオープンした。留守番という名目で文之クンと一緒によく泊まりに行った。

林田タクシーまで歩いて、そこからアメリカ外車に乗って西駅まで行く。シボレー、ビュイック、スチュードベーカー、リンカーン、フォード・・・・・あの頃は国産車より外車の方がタクシーは多かった。

代金はほとんど文之持ちだった。かなり、えらい気持ちになったものだった。

パチンコ屋の定番のような軍艦マーチは余り聴いたことはない。

お富さん(春日八郎)やそのあと流行った真室川音頭(林 伊佐雄)のメロディばかり耳に残っている。閉店を知らす「蛍の光」と・・・・

左の写真内 和清くん、彼も中学時代、よく遊んだ友達である。 家は隣同志だった。ハンサムボーイで鹿児島商業高校に進学した。バレーの選手だった。何故か?僕たちグループ4人は、別々な高校に進学した。

その頃はそれで寂しくなったとか考えたこともなかったが、僕にとって、今となっては時代に区切りがついて良かったのかも知れない。

右の浜崎定博くんは大竜の頃からの仲間である。実業高から法政大学に進学した。とてもおとなしい性格で、家が3分位のところにあった。ながーい長いもう幼馴染に近い友人なのに不思議とエピソードが浮かんで来ない。

長田中時代の校庭や教室での風景は、その気になって記憶の中に潜ってみなければ簡単には浮かんでこない。

教室での思い出と言えば、1年生の時(7組)、1人、美人?教師がいた。

・・・・・・吉満先生と呼んでいた。

柔道部の福山浩洋くんと同じクラスだった。昨年、40年振りに逢った。中学時代の話になったら、やはり共通の話題として美人先生の思い出がでた。

3年生のとき、モップで教室の掃除をしていたら、肩の辺りに異変をかんじたので目をやったら、何と!!でっかいムカデが首の方へ向かっているではないか!

異様な叫びをあげたのを今でも忘れない。そばに古里哲二がいた。彼が箒で殺してくれた。

も少し潜ると、横須先生、上村篤義(担任)先生、柳田先生、川上宗二先生(2年次担任)、木村先生(電気や)あとは仇名?で失礼します。

ニギリメシ(確か国語、)スズメ(英語)、16カン(体育)、などなど・・・・いた

ようだ。(敬語なしでスミマセン)

暴力教室

肝心の成績の方はというと、廊下に貼り出される順位はベストテンとはいかないまでも、まあまあ次の20位位までは常連だったので、悪いほうでは無かったのかも知れない。

僕らはシティボーイだったので学校内の女性には目もくれなかった。

なーんていうと、カッコイイけど、中学時代、小指の思い出はとんとない。

素朴な疑問?

グリスビーのブルース

・・・・・一体、何してたんだろう?  何考えてたんだろう?

シティボーイとくれば音楽と映画を除いて考えることは出来ない。 

と、と書いたけど音楽と映画はたいていジョイントしていた。映画で思い出すのはダントツは「シェーン」である。 

もちろん、主題歌「遥かなる山の呼び声」も最高だったけど、あの映画の最後のシーンは僕の脳裏から離れない。

映画音楽といえば「現金に手を出すな」の「グリスビーのブルース」も忘れられない。あと「戦場にかける橋」の「クワイ河マーチ」も気分がウキウキしてくる曲だった。潜り始めると尽くことなく湧いてくる。

・・・・・「誇り高き男」のイントロもたまらない、擬音で現わすとビョビョビ
ビョ、ビョンビョン、ビョビョビョビョビョーンである。

「現金に手を出すな」

イントロと言えば、この曲と映画も忘れるわけにはいかない。

・・・・・・「黄金の腕」である。

擬音ではチョットむずかしいけどとても低い、聴きとれ難いイントロに続いて
突然あらわれるトランペットの高音がたまらなかった。それも、何処か遠くから聞こえてくる、といった感じだった。

映画で中学時代を代表するとすれば、やはり

・・・・・・底抜けシリーズ をおいて他にない。おそらく僕らの時代でこのシリーズを知らない。嫌い。見たことないという人がいたら、大げさに言って、もう付き合えない、と言いたい。

主役は二人いたのだがディーン・マーチンは単なる相棒役と思っていた。

後に、シナトラ一家で活躍するエンターティナー振りはあの映画では記憶にない。

何と言っても

・・・・・ジェリールイスのあの軟体動物のような身のこなし、そして、驚いた時に見せるあの寄り目は圧巻だった。

「底抜けシリーズ」四作のうち、一番好きだったのは二番目の「底抜け落下傘
部隊」だった。朋友の有村くんがあの寄り目が得意芸だった。

有村と二人で「ふんだりけったり」「やぶれかぶれ底抜け艦隊」「ニューヨーク
の休日「地上最大のショー」[底抜け西部へ行く」まで見に行った。

日本映画の伴 淳三郎のアジャパーシリーとそのあとの「兵隊ものシリーズ」
と共に、笑いと楽しみの映画人生だったといえよう。

小学校時代がソロバン学校(塾という言語はその頃まだなかった)と紙芝居、貸本屋さんの時代だったとすると僕の時代は確実に進化しているのが分かる。

ラジオの話をすると、僕の父は音の出る機械、ラジオで代表されるけど、もう、マニアの域といってよかった。

五球スーパーを自分で組み立てていた。父の部屋はそこら辺いっぱいに真空管や半田こてが散乱状態だった。

その当時、すでに、小型(手の中に入る)のムービー(映写機)を持っていた。切手を一回り小さくしたぐらいのフィルムだった。

オールウェーブといって短波放送も聴ける優れものをすでに手がけていたし、マ
ジックアイつきのラジオもいち早く我が家には登場した。

テレビのNHK放送が始まったのが昭和28年、僕が中学1年の時だったけど、1年後ぐらいには我が家に14インチのテレビが届いたように記憶している。テレビの値段は当時、十万円前後だった。それから年々下がっていき、高校時代は5,6万になった。

28年ごろの大卒の初任給が一万円、労働者の平均給与が一万六千円位という
から、父は身の程を思うと思い切った買い物をしたことになる。

さて、これから僕が僕として目覚めていく30年代に入っていくことになる。

・・・・・・・・・・Kクンの登場。・・・・・・・・・・・・

1955年と言う年は以上のように文化、特にマスメディアの面で、そして大衆娯楽の面でそれまでと一線を画す実にエポックメーキングな年になった。

まさにその年、中学校から高校という、これまた少年から大人への変換期にさしかかっていたKクンは、その波にすっかり呑まれこまれていた。

この年にあのKクンを夢中にさせる番組が登場した。

日曜日夜、9時半から10:00までの30分間、文化放送、50キロメガサイクルあの「ユア・ヒットパレ-ド」である。

思いつくヒット曲を書き連ねてみよう。

どうぞ、思い出す人は一緒にあの時に戻って口ずさんでみよう!。

① 最初に登場するのは、ペレスプラードのマンボのリズムに乗ってセレソローサはいかがでしょう。

② 番目は暴力教室の挿入歌・Rock・around・the・clock

③ 番目、テネシアーニーフォードの「シックスティーントーンズ」プラターズの超低でも有名。

④ 「テキサスの黄色いバラ」

⑤ 「デビークロケットの唄」

⑥ 「sho-jo-ji]

⑦ 「裏町のお転婆娘」

⑧ 黄金の腕「グリスビーのブルース」

⑨ 「グレンミラー物語」

そこで、 Kクンの今までのシティボーイ人生での最も記憶に残る映画シーンを最後に貼りつけてこの章のおわりにしたいと思う。

この写真はとても大切な僕の中学2年の時の写真である。場所は今、中町ベルクの久保仏具店のあとである。当時、有村クンの家で東京パチンコという店の屋根の上である。後に見える山形屋の方角に道を隔てて美千代美容室があった。そこの娘ミチヨちゃん(当時名山小学校)が何と、今の僕の妻である。そして、今書いているこの場所はこれまた、何と!この場所のこちら隣の理容ホワイトの3階である。

古びた僕のアルバムに