大同

Da tongダートン

2006・9・12~14

雲崗石窟

雲崗石窟は、山西省最北部の都市、大同市の西、武周山の南麓にある。

398年、鮮卑族の拓跋氏(タクバツシ)がここを北魏王朝の都とした。

460年,文成帝は雲崗石窟の造営に着手した。

494年に北魏が都を洛陽に移した後も造営は続けられた。2001年に
は世界文化遺産に登録され世界中の人々がここを訪れるようになった。

次の旅の始まりはいつも乗物の中から始まる。ぼくの書き方のクセなのかもしれない。

今、11日の朝11時が少し過ぎたところである。

進行方向の右手にはのどかな、いつもながらの中国の田園風景が広がっている。車内の温度は25℃くらいだろうか、まぶしいような、あかるい日差しが窓際の机の上のメモ帳を照らしている。

左手の窓の方を眺めると、内モンゴルの牧草地帯が視野いっぱいに展開する。

ときおり、車窓のはるか彼方の山腹に、おびただしい数のひつじたちの群れが見える。

車窓からの眺めはいつもぼくの中国旅行の楽しみの時間である。

今朝8時30分に金トンさんと陳さんがホテルまで迎えに来てくれた。

「プレゼントがあります」と言いながら、紙袋と長い筒箱を車からとり出した。

「これは劉思情さんからです。」と金トンさんはぼくに向かって筒のほうを差し出しながら言った。

「なにもお構いができませんでしたが楽しい旅が出来ましたか?」 と言ってましたよ。

「それから、これは家内からです。」

と、ちょっとはにかんだように言いながら黒いしゃれたデザインの紙袋を差し出した。中には二つの箱が入っていた。

実はすぐあることがピーンときた。中身の品物についてである。。丁さんに来る前に何気なく訊いたことがあった。

「丁さん、パオトウはカシミヤが特産品なんだってね。金トンさんは安いお店を知ってるだろうか?」

「大石さん、安物は勧めませんネ。いくらでも安いものはあります。でも、いいものを買うほうが良いと思います。ブランド品があります。もし、大石さんが欲しかったら 金トンさんにブランド品の工場を案内させましょうか?」

と、丁さんが言ってたのを思い出したのだ。その時は、

「いいよ、いいよ工場見学なんかしなくても時間が勿体ないから。」と答えたのを憶えている。

この袋の中は「もしかして・・いや、きっと」と、大変な気を遣わせてしまったことを後悔した。

でもこれからの旅に紙袋をさげて移動するのは大変だった。

折角の立派な包装を金トンさんには悪かったけど、大同のホテルに着いたらすぐ、戴いた二個の箱を開いてみた。

中には予想したとおりの素敵な男女物のマフラーが入っていた。

それは、もちろん、ブランド品に違いない柔らかな肌触りのマフラーだった。

戴いたもう一方の「掛軸」にも実は、またあらたなエピソードが発生したのだが、こちらはもっと先の方でお話ししなければならない。

さて、話を戻す。

ぼくの乗った火車(汽車のこと)は9:15発のニンポー(寧波)行きの硬座寝台である。

学生時代利用したあのなつかしい急行「きりしま」二等寝台と同じ型である。

大同市までの乗車時間は6時間と時間表に出ていた。

この汽車の始発駅が何処からなのか分からなかったけど乗客も少なくあたりには人のけはいもなかった。

まもなく着くフフホト駅では、たくさんの乗客できっと車両が埋まるのだろう。

上段に男性が一人眠っているようだ。寧波まで行くのだろうか、いったいどれ位の時間がかかるのだろう。

大同までが6時間とすると、地図でみたところ8倍くらいの距離である。北京、上海を過ぎて寧波に着くのに2昼夜、48時間はかかるに違いない。

しかし考えてみるとぼくらも学生のころは鹿児島駅を夕方発った急行「きりしま」は48時間つまり2昼夜かかって翌々日、東京有楽町駅に着いたのだった。
当時の旅はそれが普通だった。思えば、もう40数年昔のことである。

やがて新幹線が出来て時間は短縮されたけど、たいていの人は飛行機を利用するようになった。人々の所得が増え、航空運賃がそれほど負担にならなくなったことも由来しているのだろう。

それでも夜行寝台が姿を消したのはそれほど昔のことではない。

中国も空のインフラは日本と変わらないぐらい発達してきている。それこそ片手で数えられる時間があれば中国全土を行き来することが出来る。ただ一般の市民がそれを簡単に利用出来るまで所得水準が達していないというだけである。

「中国人の一般市民はたいへんだなぁ」といくらかの差別意識がはたらくのも過去のことになる日がそう遠くないのかも知れない。

話は汽車の中にもどる。今、11:30、ということは3時間が過ぎたことになる。

豊鎮というところを過ぎると「万里の長城」を越える。長城は北京から、ここ大同を越えオルドスの砂漠の南際にそって銀川市を過ぎたあたりで一旦消える。多分、壊れて現存していないのかもしれない。

秦の始皇帝(前246年)が天下を統一したあと、本格的に長城をつくりはじめてから、明の大規模な工事により我々が眼にする万里の長城になるまで、じつに1800年を経ている。

この間、ほとんどの王朝が長城を造り替えたり、直したりしてきた。

中国が始皇帝により統一されるまでは各諸侯国は自国の周囲に城壁をつくっていた。

特に北方の各諸侯国はお互い同士だけではなく、北の移民族からの襲撃を防ぐという別の大きな目的があった。

天下を統一した秦は、万里の長城として活かせる北の城壁以外はすべて土地の民を動員して取り壊したといわれている。

中国の歴史を眺めてみると、匈奴を筆頭に、いろんな異民族が、中国に侵攻し、略奪、殺戮をくりかえしてきた。

侵攻されたばかりでなく、五胡十六国時代(304~439)五代十国時代(907~960)金(1115~1234)の時代のように北から長城を越えて漢に入りそのまま住み着いてしまった多数の異民族による国も築かれた。

かって強力な騎馬軍団を擁していた異民族(匈奴、鮮卑、契丹、突厥など)も、中国内に定住するうち、騎馬の力がおとろえてきて今度は新たな遊牧民族の侵攻にそれまであった長城を補修したり、増築したりして、騎馬の侵攻に備えるようになった。

ぼくは走っている列車の左車窓から遠くに、しかしはっきりと見える、のろし台が等間隔で現れては消え、また現れては去っていくのをぼんやりと眺めていた。

今からはるか1500年~1600年も昔(、日本だと卑弥呼の古墳時代である)、の様子を想像していた。何千、何万の騎馬軍団が突如、あの山の向うから津波のように押し寄せてくる姿を、そして、おおあわてで、のろしに火をつける見張り番の兵の姿が浮かんで消えた。

その遠くに見えていた山並みが段々と列車に近く見えてくるようになった。

数分おきに山の頂にのろし台が見えていた。

横にいる(最初に上段で眠っていた)中国人が「もうすぐすると変わった形の山がある」と言う。それよりぼくがいちばん訊きたかったのは万里の長城はいつ見えるのか?ということだった。

「あぁ、もうすぐ見えるよ。でも、汽車の中からは土塁だけだよ。」と、そっけない答えが返ってきた。

写真6番目、7番目が念願の「大同の長城」である。この長城をまたぐ間、ぼくのデジカメは撮影モードに切り替えてあった。のろし台からこの朽ち果てて土塁と化した長城を延々と、と言っても5分ほどだけど撮り続けた。(お見せできないのが残念。)

男は太原に行くらしい。おしゃべり男で、この路線をいつも仕事で使っているという。

変わった山の名前は『臥仏山』と言って格好が仏が横向きに臥しているように見えるのだそうだ。どうしても、その姿をぼくに見せたいらしい。

正直、あまり興味はないのだが、「楽しみですね、どんな山か。」と答えておいた。

左手に湖が見えてきた「湖ですか?池ですか?」と尋ねたら、「この沼は大きいけれど魚はいないんだ」と言う。「沼の底は全部砂だから魚のエサがないんだ」。との答えだった。

(車中の話がつづく)、

この後大同駅が近づくまで、とてもおしゃべりな車掌が話しに割り込んできたのだ。

どういうきっかけだったかは憶えていないが、とにかく横に座り込んできて太原の男と三人でのおしゃべりタイムとなった。

もっともしゃべりの比率は4対4対2と言ったところだろうか。おもな話題は、今から行く雲崗石窟と懸空寺を見学したあとのぼくの行程についてだ。

余計なお世話でもあるが実はぼくも迷っていたところだったので真剣に討議に加わることにした。

五台山からの先のコースについてであった。五台山から次に何処に行くか、そのいちばん理想的な交通手段についてのふたりの意見がいつまでも一致しないのだ。

ただ、唯一、同意見だったのが「平遥は面白くない」「あんなところはわざわざ行く所ではない」「五台山は2日いてもいい」という。

「平遥」~「太原」~「五台山」~「懸空寺」~「大同」(雲崗石窟)~「北京」の今と逆のコースが一番いいんだそうだ。だけど、もうすぐ大同に着くじゃないか、何もこのまま太原まで行くこともあるまい。

つまり、平遥なんかに行くよりも折角、五台山に行くのなら、ゆっくり2日ぐらいかけて五台山にいるのがいいというのが二人の意見のようだった。 

ここにきて世界遺産「平遥」が遠くに去り、かわって福建省の世界遺産「土楼・客家」が目の前にグーンと近づいた。大同のホテルに着いたら早速アモイの上山さんに電話をすることにした。

目的地(大同駅)に着いたのはもう4時がとっくに過ぎていた。(写真)

昨夜「地球の歩き方」に書いてあった「雲崗賓館」に電話して今日の泊りの予約をしていた。その時の電話では、どうも本に書いてあった通り名とフロントの告げた通り名が違っていたようだった。

雲崗賓館には中国国際旅行社があって、そこでは日本語ガイドが300元、車のチャーターが1日400元~と書いてあった。

今回の大同の石窟と寺の観光は『日本語ガイドに説明してもらうこと。』を旅の第一のキーワードにしていた。

ホテル内でゆっくり相談できると思いこのホテルを選んだのに住所が違うというのはどういうことなんだろう。でも、これ以上のことはぼくの中国語では解明できない。

とにかく、明日からの行程をガイドの件をふくめて早く決めたかった。

本には大同駅前にも中国国際旅行社があるように書いてあった。

うるさくつきまとって来た客引きタクシーの一人に「この辺に旅行社があるか?」と尋ねてみたがそんな旅行社はないという。

仕方がないので「雲崗賓館」と字を書いて見せるとOK,OK「乗れ」とドアを開けた。

わずか5分ほどでホテルに着いた。ホテルの名前は「雲崗国際酒店」と書いてあった。しかし、電話番号は『地球の歩き方』の「雲崗賓館」と同じ、(0352)5863888なのだ。???

あとで、ここのホテルで紹介された日本語ガイド・任麗英さんにそのことを訊いてみた。

答えは、「雲崗賓館」はもうありません。「雲崗国際酒店」に変わりました。と聞いてはじめて納得した。

時計の針は6時を指していた。早く明日の段取りを決めないと、とチェックインもそこそこにフロントで聞いた旅行社を尋ねることにした。

そこはホテルから眼と鼻の先にあった。中国国際旅行社ではなく「大同和平国際旅行社」と看板に書いてあった。

旅行社にしては一般の住居のような小さな建物でドアを開けると子供が2人遊んでいた。、でも対応に出た女性の感じがとてもよく、人柄も信用出来そうだったので、とりあえず明日のガイドをお願いすることにした。

「明日の朝8時に、日本語ガイドがホテルに迎えに来ます。」という。

「男性ですか?それとも小姐?」と尋ねてみた。どう思ったのか知らないが「女性ですよ。」とにこっと笑った。(笑いの意思是我不憧)

1日200元だと言う。ぼくの携帯番号をおしえて旅行社を出た。ホテルの前に着くと陽が沈もうとしていた。(写真、大同駅の下の写真))

予定では、出来れば夕食前に市内の名所を1~2箇所回りたかった。

ホテルのフロントで華厳寺はどこか?と聞いたらここから5分ぐらい。との返事が返ってきたので急いで行って見ることにした。

残念なことにもうお寺はとっくに閉門になっていた。

写真だけを2,3枚撮り、(写真)名物の刀削麺を食べに市街地に向かった。

日本語ガイドの任(Ren)莉英さんと。

 

9月12日(火)朝

ホテルに迎えに来た任さんは流暢な日本語を話す和平旅行社の専任ガイドである。

年齢は32歳。「12になる男の子がいます。」 にこっと笑った顔が可愛かった。

「雲崗石窟はむかし武周石窟とよばれていました。」

「雲崗石窟は敦煌莫高窟、洛陽龍門石窟、天水麦積山石窟とともに中国四大石窟のひとつに数えられています。」

「雲崗石窟の主要な造像は三世仏です。三世仏は過去仏、現在仏、未来仏を本尊にしています。」

・・・・・・・・・雲崗石窟に着くまでの30分あまりの車のなかで任さんの雲崗石窟の解説が始まった。

はじめからぼくの予備知識とはちがう説明だった。

「そのバクセキサン石窟ってどこにあるんですか?」すぐ、四川の楽山か大足あたりが頭に浮かんだ。でも返ってきた答えは違っていた。

「麦積山石窟は甘粛省にあります。194の石窟があって塑像で有名です。粘土です。

莫高窟は壁画が有名です。雲崗石窟は石彫(セキボリ)です。そして龍門石窟は雲崗石窟の兄弟です。」

「時代はどうなっていますか?」と訊くと、「南北朝時代(5世紀)からはじまって宋(13世紀)まで続きました。三尊阿弥陀仏です。」

そうか、知らなかったな。三大とばかり思っていたら四大か?また、行く所がひとつ増えてしまった。帰ったらHPで見つけてみよう。(調べて見ました。)

・・・ところで

ぼくの実際の雲崗石窟の見学ルートは右手の東部石窟群である第3窟から始まった。

帰ってからHPに説明入りの写真を載せようとおもいIPレコーダー(マッチ型の録音機)とCASIOのEXILIMを携えての見学だった。

帰ってから任さんの解説を何度も聞き返し、各窟の解説も書けるようになったけれど果たしてそれが面白いか?と考えてみたら、実際、あの大迫力の石仏群を写真で説明した所でどうなんだろう。目の前で聞いてはじめて感動もある。そう思って個々の解説はやめることにした。

ただ、以下の『曇曜五窟』だけは少し説明をしたいと思い載せることにした。

・・・・そういうわけでここからの内容は見学順序と関係のないドキュメントです。

「雲崗石窟でいちばん有名なのは第20窟です。」

「露座の大仏と一般に言われています。この石窟は北魏の開祖である道武帝を模して造られたとされています。三世仏です。

前の壁が崩壊しました。その時、左側にあった像も壊れました。遼の時代です。」

(ケイジの解説)

鮮卑(内モンゴル)の拓跋部は華北の地の農耕地帯を支配すると急速に国力を強めてゆき、都を平城(今の大同市)に遷し帝位につき国号を魏と定めた。

386年に拓跋珪(タクバツケイ)つまり道武帝が魏王の位についた。

国号を北魏とし、それまであった部族制度を解散して、族長たちを貴族にして武民達を漢族と同じ戸籍に編入した。また、有能な漢人を高官に取り立てた。

「雲崗石窟のなかでいちばん最初に造られたのが第19窟です。曇曜五窟のなかではいちばん大きな大仏で石窟全体でも2番目に大きいです。高さは16.8mです。

460年に曇曜が雲崗石窟を第4代の文成帝の命で造り始めて、最初の石仏です。

2代目皇帝の明元帝を模して作られたと言われてます。」

「第18窟も19窟とほぼ同じに彫られた石仏です。第3代皇帝の太武帝(423~452)を模した石仏と言われていますが実は言われているだけでその証拠はありません。学者のあてずっぽです。どこにも書かれた文字は残っていないのです。」

「他の石仏もおなじです。みなの想像です。」

「袈裟を羽織っています。左手ほ胸の前に置いています。そして、袈裟には小さな仏像がいっぱい彫り込まれています。「千仏袈裟」です。」

(ケイジの解説)

道武帝を継いだ明元帝は江南に成立していた宋を攻め、一時は黄河以南にまで領土を拡大していった。そして、明元帝の子として帝位についたのが太武帝である。

父の代に回復され強固になった権力基盤を背景に崔浩(さいこう)ら漢族の知識人の助言をえて政治、軍事両面の体制を一段と整備し、五胡の国々をつぎつぎに滅ぼして、ついに、華北の統一を完成した(439)

中国風王朝の建設をめざし、道士の冠謙之(368~448)を信任し、道教を採用、太平真君7年(446)廃仏毀釈の令をだして仏教を弾圧した。中国史上『三武一宗の法難』といわれ仏教の四大弾圧の最初となった。(崔浩も仏教嫌いだった)

北魏仏教は打撃をうけたが太武帝の長子、皇太子晃はかげで仏教を庇護し、そのため仏教教団は命脈を保つ事ができたといわれる。その晃を祭った窟が第17窟である。

景穆(ボク)帝といい15.6mの交脚弥勒菩薩像である。(写真中)

景穆(ボク)帝・晃は451年に突然、病死し、そのまた翌年に太武帝が宦官によって殺された。(452)

晃の長男だった文成帝が即位(第4代皇帝)し、亡父の遺志をついで仏教の興隆に努めた。第16窟の本尊・釈迦仏立像である。(写真左)

胸の前で結んだ帯が下に長く垂れている。像の下半分は破壊されているが、像の前に立って仰ぎ見ると、仏像を仰ぐというより、皇帝の前にひれ伏している感じである。

(ケイジの解説)

雲崗石窟はこの若き第四代皇帝・文成帝(13歳で即位)が和平元年(460)曇曜を召しだし当時の仏教界の最高位である沙門統に任じ、雲崗石窟の開窟をはじめた。

この事業は第6代の孝文帝まで続けられ、彼の遷都・洛陽の『龍門石窟』へと引継がれていった。

日本語ガイドの任莉英さんの説明の中からいくつか記憶にある話を思い出して書いてみたいとおもう。

● 石仏についている無数の穴の正体は?

「あれはくさびのの痕です。彫ったあと粘土で衣服を作りました。いろいろな装飾品も付  けました。粘土がすぐ落ちてしまいます。そこで、石に木でくさびを打ち込みました。粘   土がとても付き易いです。でも、長い年月がたちます。木が腐りました。粘土が剥げ落  ちてしまいました。痕に穴だけが残りました。」

● どうして立像は下の土を掘っているのですか?

「雲崗石窟、石仏、まず頭から掘り始めました。どんどん彫っていくうち脚が残りました。

土彫るしかありませんでした。これで、雲崗石窟、まず上から彫り始めたことがわかりま す。

● 本当は曇曜五窟の中心窟は第19窟です。20窟が外壁があったらここに立って眺めたら19窟が扇の要の所に位置します。今、20窟、外壁ありません。だから皆、中心と思っています。

● 曇曜五窟の胸には龍が彫ってあります。(分からなかった)、人民は石仏、拝みます。 つまり、皇帝を拝んでいます。

以上:任さん語録より。

今度の旅の二つ目の目的だった『雲崗石窟』の見学はこうして終った。このあと、三つ目の目標点・『懸空寺』へ向かう。一度、大同にもどり昼食をとってから向かう『懸空寺』は約2時間の行程です。と任莉英さんが言った。ここに到る過程で、ぼくは明日の『五台山』観光も任莉英さんにガイドをお願いしょう。という気持ちになっていた。

足になるクルマもワーゲン・パサートのなかなかフットワークの良い乗用車である。

何よりも大同から五台山まで定期のバスは出ていない、と彼女は言う。

3000メートルの高地へ向かう天空ルートはやはり快適な乗物を選びたい。

仮に、何とか行ったとしても観光案内から宿泊と、考えると大変である。 彼女は言う。

「大石さんは一番良いのは、このまま懸空寺見学したのあと、そのまま五台山に私たちと行きます。懸空寺は大同市と五台山の中間です。あと4時間、山を登ると五台山に着きます。もう、夕方です。泊って、明日、一日、五台山、見学します。

午後、大同市に戻ります。途中、木塔、見学します。大同、夜に着きます。もう一日、ホテルに泊まって北京行く、どうですか?いちばん良い行程です。」

ぼくは同感だった。旅行社との料金交渉とホテルにあさって泊まるから旅行ケースを預かってもらう交渉などを済ますのに1時間、昼食に1時間ほど要し『懸空寺』へ向かった。

懸空寺はこちら→