鄭州

ジャンジョウ

2004/5/17

5月16日から25日までの10日間、「中国ぶらり旅」という名を勝手につけたひとり旅をした。

訪れた都市は・・・鄭州・洛陽・西安・蘭州・西寧・西安。主な観光地は崇山・少林寺・龍門石窟・華山・青海湖・白馬寺ほか幾多のお寺だった。

僕がこのコースを自分で企画した最大の目的は、中国大陸の二大河川である長江と黄河を自分の目で、より近くで眺めてみたい、という夢の実現だった。

三年前に《三峡下り》で長江の旅は済ませていたので今回はぜひ黄河を、という思いが強くあったのである。

思い通り鄭州の「黄河風景区」では広大な黄河の砂地をホバークラフトで走り廻り、蘭州では黄河を羊の袋で出来た筏に乗って下る体験も出来た。

・・・・かって都、長安を追放された李白は黄河の印象を次のように書いた。

“わたしは舟にのり黄河に浮かんで都をはなれ、東へやってきた。

さらに帆をあげて進もうと思うのだが、波が高く山を連ねたようである。

天は果てしなく長く、水も果てしなく広いのでさらに遠く旅

続けていくのがいやになった。”

・・・・・・・・・・・・・。

大黄河

“黄河の水は東の海に向かって走り、太陽は西の海に落ちる。

すぎゆく川の水も、流される時間もアッというまであり、人を待ってくれない。

青春の顔たちはわたしを捨てていってしまった。

人生の白髪となりはててしまった″

・・・・・・・・・・李白。

僕が今度の旅の出発点を鄭州にしたのは二つの理由があった。

1つは汽車の長旅をしたかったこと、、はるばるこの地に来た。という気持ちになるには、飛行機ではイヤだったのである。地図を見ると判るけど長沙~~鄭州間は北へ一直線なのである。

もうひとつの理由は邱永漢氏の小説「中国の旅、食もまた楽し」の中の「水害の中で育った黄河文明の町鄭州」の文を読んで、鄭州と黄河がひっかかっていたからである。

・・・・・中国の文化と言えば、中原の文化であり、「中原を制するものは天下を制する》と昔から言われている。中原とは、黄河の流域のことで、ある。

・・・・・以下、本文より引用。

益田クン歓迎会
左、鄭旗一家・範先生ご夫婦
手前、益田先生、後ろは袁静さん

中国地図を拡げるとかなり北のほうに位置しているが、商(殷)の時代(約三千五百年前)から北宋にいたるまでの歴代王朝はこの地域にひらかれ、数々の古墳が次々と発掘されるのも大体この地域である。

俗に黄河文明と呼ばれるように、中国の文化が黄河沿線に発生し、開封・鄭州・洛陽・西安と東へ動いたり、西へ動いたりしたのは決して偶然ではない。

そうした史跡が次々と開掘されて出土するのが河南省の鄭州である。

・・・・・今でこそ黄河は鄭州市から北へ30キロほど離れたところを流れているし、水量もだんだん減ってきたので、しばらくは落着いているが、いつまたどこで大暴れするかわかったものではない。

いつも本の上でばかり接して実物に一度もお目にかかったことのない私としても、一度は鄭州に行ってみなくてはと思った。

《中国の旅、食もまた楽し》より。

黄河遊覧区内の遊園地

二日前の5月14日の夜10時15分、僕は一週間の《九寨溝》の旅から帰ってきた。

成都を夜8時10分に飛び立ったので、2時間の飛行距離なのに結構疲れていた。

詔山路の華程大酒店に着いたのは11時を回っていた。

翌15日(土)は夕方から平和堂の六階にある餐館で益田くんの二代目日本語教師歓迎会が範院長主催で開かれた。

その二日間で《九寨溝》の時の洗濯物を乾かさなければならない。あいにく長沙は雨模様でジーンズが乾きそうもない。16日からの長旅に間に合わしたいのでホテルに頼んでジーンズだけ乾かしてもらった。

この間のことをぼくの手帳には詳細にメモされている。

・・・・メモより。

●14日夜:バッグ〈旅用〉整理。電子辞典に電池を入れる。DVは入らなかったらやめる。傘はいれる。ズボンはチノパンにする。ジーンズは乾くか?クリーニングに出せるか?(ホテルで出来るか?

●華天旅行社に行く。ホテルだけは三星にしたい。ツアーは現地ツアーに加わりたい。日本人ガイドは不用。

●15日朝:外は雨、いかにも長沙。昨夜,寮(益田住む)からホテルに戻ったのが夜中の1時、風呂に入って寝たのが2:30だった。九寨溝以後、時間が狂ったのか。朝、寮に行く。天気が良ければ益田君が生徒たちと岳麓山に行くというので、一緒に、と思っていたがこの雨ではとても無理。

●李湯竜に電話する。彼に上げた白いウインドブレーカーを今度の旅行中貸して貰おうかと思う。あの九寨溝の寒さはないと思うけど、念のためバッグに入れておきたい。

●このホテル・華程(ファチョン)大酒店はなかなか気に入っている。部屋も、場所も、環境も、サービスも充分だ。満点が五つ星としたら準というところか?一泊250元とは安すぎる感じ。でもたまに故障がある。昨夜、風呂の排水蓋がどうやっても開かない。

●16日朝風呂に入る。9:00 小燕が来る。少し雨。11:00荷を持って寮へ衣服(洗濯物)を取りに行く。

●11:00ホテル、チェックアウト。携帯の入金200元購入。中国銀行の初めてカード機を使って引き出す。小燕に付いてて貰う。

テストに100元、正式に1000元、シークrットナンバーは小燕だけは知っている。二人で黄興路の歩行街にシャツを買いに行く。

●カードを使ってジーンズの上下を買う。小燕にもジーンズをプレゼント。総額、500元〈7500円)

●4:20小燕、ぼくを長沙駅まで見送る。彼女の手配で10元出して、改札前に皆をさしおいてホームに案内される。コレってどうなっているの?「駅員のアルバイトよ。」小燕が言う。いろいろな裏口が中国にはある。

●旅行カバンのロックが壊れて開かなくなった。どうしょう。

●小燕が言う「アナタ ムコウイタラ スグ ナオシテモライナサイ ナオタラ モウ ロク ツカワナイデ イイデショウ」

・・・・・・と言って,心配そうに小燕は帰って行った。

過去3000年間に何百回もの氾濫を繰り返してきた
黄河の歴史をタップリ堪能できます。歴史好きには最高。

小燕(21歳)は今度の中国滞在中に僕の旅の全ての旅程から交通手段からホテルまですべてを相談に乗ってくれた「長沙華天旅行社」の 僕の担当“尋游小姐(ダオヨウシャウジェ)”だった。

ダオの字が中国簡体字で違うけど、「ガイド嬢」のこと。

彼女の達者な日本語のお陰で旅は楽だと思うけど、頼ってしまって自分一人の孤独感を味わえないので「一緒に行かなくて大丈夫ですか?」との申し出を断った。

《九寨溝》の時も、行く前は「道中、生きた中国語の専属教師付き旅行が出来ると楽しみにしていたが彼女の日本語能力におされてしまい中国人旅行朋友たちとの会話があまり出来なかった。

いざと言うときの電話(手机)連絡だけはいつでもとれるようにして僕は長沙駅5時10分発鄭州行の硬座寝台列車(k2154)に乗った。 翌朝6時30分に鄭州駅に司机(スージ)注:車の運転手のこと。 が僕の名前を書いた紙を掲げて待っている事になっている。

夜中に突然、僕の携帯が鳴った。

「もしもし!大石さんでいらっしやいますか?」

久々に聞く正統派日本語である。

「明日朝、鄭州で降りられる大石さんですよね?」

「ハイハイ、そうですが・・・・」

「私、河南大学日本人留学生です。実は、明日、大石さんを案内する事になっている趙福生(ジャオ)さんの同じアパートの隣同士なんですが、彼が大石さんのガイドをとても怖がっています。」

「もし、英語のガイドでよろしかったら、お願い出来ると、言っています。」

「あぁ、別に特別な説明など要りませんよ。それに、僕も、意思の疎通程度は話せますから、手まねなど入れて楽しくやりましょう。と伝えてください。」

「そうですか?彼が言うには、運転ガイドの場合,食事は大石さんが持つこと、各所観光地の入場券は自分の分だけでいいことなど、知っておられるのか?

もし、会社に直接、私への不満を告げられると怖い。・・・そう言ってるんです。」

「お年はおいくつぐらいのかたですか?」

「60ぐらいです。」

「そうですか?じゃあ同級みたいなものです。ご心配なく」

趙福生(ジャオ)さんと。とても良い人でした。

おかげで、明日の一日のイメージが浮かんできた。

夜は河南大学の留学生も一緒に鄭州の歩行街で食事でも・・・

中原・ぶらり旅の一日目の夜はこうして暮れた。車中での中国人とのコンタクトはほとんどなかった。か、記憶していない。

鄭州の改札口で趙福生(ジャオ)さんがニコニコ顔で僕の名を書いた紙を両手で掲げながら迎えてくれた。

昨夜の電話できっと安心したのだろう。

メモ帳をめくってみたら、17日の蘭にはこう書いたあった。

     支出:      朝ごはん  二人    20元
              入場券         30元
              ホバークラフト     65元
              昼ごはん  二人    25元
              夕ご飯   麦労当   22元
              スーパー(手帳他)    9元
     ホテル:     聚和賓館
     見学:      黄河風景区
              河南省博物館
              商代遺跡
              歩行者天国

朝食を終わると趙福生(ジャオ)さんに頼んで、ひとまずホテルへ行ってもらった。

旅用のシェーバーはあるのだが、どうも、あの火車硬座の洗面所で歯を磨いたり,顔を洗う気にならない。トイレにも行きたいので1時間ほど休憩をしたかった。

実は、他の理由もあった。

この前、杭州行きの時買った短期旅行用の滑車つきカバンの暗証ナンバーキーが壊れてしまい、開かなくなってしまったのだ。

赴福生(ジャオ)さんにお願いしてどこかで直してもらうよう昨夜の女子留学生との電話でお願いしてあった。

「ワタシ 鍵屋ニイッテ ナオシテキマス。」

趙福生(ジャオ)さんは僕をホテルに送るとそう言って出て行った。1時間ほどして趙福生(ジャオ)さんが帰ってきた。

「先生のイタ〈告訴我)バンゴウ、ツオラ(間違いネ)」

いつの間にか、決めていた0123が別な暗証番号に変わっていたらしい。

うっかりパスポートでも入れて空港で開かなくなったら大変なので今から鍵はかけないようにした。

それでも時間はまだ10時前。ホテルから近いという《河南博物館》に行った。とても立派な建物だった。

趙福生(ジャオ)さんが門番としきりにやり合っている。

駐車場のことかと思っていたら、未だ開館しないのだという。あと一時間あとなので先に黄河遊覧区に行くという。

鄭州の道路は直線が多い。滑走路のような道路が延々と続く。

左折や右折すると又延々と続く。そんな感じの街だ。

昼食は鄭州名物を食べたいと、と言うと

「オーケー,マカシテクレ。」と赴福生(ジャオ)さんがニコリ。

市内をグルグルと回る。かなり運転は荒い。

あちこちでのやりとりを聞いてると趙福生(ジャオ)さんの性格は内輪に優しく、他人に強く当たる、よく見かける中国人の性格のようである。

このあと明日の少林寺、明後日の龍門石窟と、今回の旅中、一番長く共に時間を過ごした人だった。

僕のために一度も嫌な顔を見せることなく接してくれた。

もっとも、他の案内人(ガイド)もその点では同じだったけど。

6時ごろにホテルに帰ってきた。30分ほど休憩をして夕食を兼ねて鄭州随一の繁華街に出かけた。タクシーデ10分ぐらいのところにあった。

大きな広場があって、その広場を中心に二つのデパート方向と歩行街が続く。上海、杭州、成都、長沙、岳陽と最近は、どの都市にも歩行街があり、その都市の香りを嗅ぐことが出来て愉しい。

街は活気にあふれていたけど長沙や成都ほど明るくなく(ネオンが少ないのか?)商店の照明のせいか?よく分らなかった。

夕食はデパートの1階で麦当労(マイタンラウ)マクドナルドのこと。ですました。

夜おそく小(シャオ)燕から電話が入った。

「ヨシチャン!、キョウハ タノシカッタ デスカ?

ワタシ シンパイシテタヨ アナタ、手 アラワナイカラ

キタノホウ 非典(サーズ)キオ ツケタホウガ イイヨ。」

「大丈夫だよ。ご心配なく・・」

「ソチラノ ガイドの コトデ フマン アタラ スグ デンワ  イイヨ アタシ イツデモ マテルヨ。」

終わり

明日は崇山・少林寺です。